常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

山形県吟剣詩舞コンクール

2016年05月16日 | 詩吟


吟詠第二部出吟した吟士は15名。吟題「海南行」が8名、「花朝澱江を下る」4名、「山間の秋夜」2名、「桜祠に遊ぶ」1名であった。この部の出吟者は、声の張り、節調、吟の味などで他の部から抜き出ていたと感じられた。

多くの吟士が細川頼之の「海南行」を選んだのはどのような理由であろうか。細川頼之といえば南北朝時代の武将である。室町幕府の管領となり、幼少であった3代将軍足利義満を補佐した。しかし、頼之を妬んで追い落とそうる政敵もあり、失脚して僧籍に入る。後に許されて復権するが、漢詩「海南行」は、その失脚時代の心境を詠んだものであろう。

人生五十功無きを愧ず
花木春過ぎて夏已に中ばなり
満室の蒼蠅掃えども去り難し
起って禅榻を尋ねて清風に臥せん

満室の蒼蠅などと言葉にしてしまえば、すこしばかり鬱陶しいような表現であるが、幕府のなかに渦巻いている政敵の振舞いを見て頼之が僧門に心を寄せるのは、時代背景を考えるとまことにむべなるかなである。優勝は俣岡文明氏、2位の草島和夫氏のお二人が東北大会へ挑戦することになった。

今回のコンクールでも、小中学生や青年の部のでも出吟があり、井上文人君の東北大会への出吟が決まった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本国という名の山

2016年05月16日 | 登山


日本国という山があることはあまり知られていないのではないか。鼠ヶ関から小名部集落を経て、新潟県にまたがる標高555mの山である。地名辞典にあたってみると、読み方は「にっぽんこく」である。擂鉢をふせたような山容であるが、なぜこんな山名がついたのか、興味をそそられる。この山の頂上に登って、その由来看板の記されてあった。崇峻天皇の第一皇子の蜂子皇子の伝説が書かれてあった。

崇峻天皇は在位5年目にして、蘇我氏のために暗殺された。王子の身を危ぶんだ聖徳太子は、皇子を北の地へ逃れさせた。王子は日本海を北上して、由良の八乙女に上陸、東の山中羽黒山に住んで出羽三山の修験道を開いた。皇子は51歳でこの羽黒山で死ぬが、それに先だって、この山に登り、自らの生れた飛鳥の地をさして、「この先は日本国である。」と言い、蝦夷地と日本国の境界であるとした。この故事が、この山を日本国と呼ぶようになった由来である。



小名部集落から林道を登山口まで車が入る。終点に車を置くと、すぐに登山口の標識があり、細い登山道があり、草木の刈り払いもされていて道に迷うこともなく頂上に向かう。新緑は過ぎて緑が深くなっている。途中、アイコ、ミズなどの山菜も伸びていた。手に余るぐらい採取して家づとにする。

登山口から1時間ちょっとで頂上に着く。新潟から登ってきた女性のグループ先客で、おいしそうにお握りを頬張っていた。山頂から少しだけ海が見えるが、伝説の蜂子皇子は、本当にこの山から飛鳥の方を認識したのであろうか。美しい新緑の山並みの向こうに、小さく囲まれた海が見え、本来なら粟島が見えるはずだが、霞んで確認することはできなかった。

帰路、鼠ヶ関のおさかな市場で、煮魚の定食。アオサの味噌汁つき。ゆりの花温泉で汗を流す。入浴料は350円、気持ちのよい温泉であった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする