山歩きの楽しみは、その景色のなかに、季節を感じることだ。雪が消えて、木々には若葉が萌え始める。その美しさに心を洗われるが、カメラに収めてみても、拙い写真術では十全にその美しさを再現することはできない。古の歌人なら、この景をどのように歌に詠んだのか、興味深い。ふと気になって、塚本邦雄の『定家百首』を開いてみた。
末とほき若葉のしばふうちなびき雲雀鳴く野の春の夕ぐれ 藤原定家
百人一首を選定した藤原定家は、この若葉の萌えでる景色を、「若葉のしばふ」と詠んで見せた。そのしばふはさざ波をうって、遠くへと続く。塚本の歌の解釈が、詩の形式で書かれてあった。
見はるかす芝生はさみどりのさざなみ
夕日をうけてさわだつしろがねの葉裏
春の野は目路のすゑまで輝きわたり
ああ雲雀が鳴く かすかなかなしみを
私の上にさんさんとまきちらしながら
塚本が書くように、この若葉の波のなかで鳴く雲雀が、作者のうえに悲しみを撒いたのかどうか。歌からはっきりと読み取ることはできない。だが、定家の生きた時代、すでに公家の生きる道は狭いものとなり、息苦しさを感じていたことであろう。心を洗われるようなさみどりを目にしても、その陰りを打ち消すことはかなわなかったことは推測できる。