常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

秋田駒ケ岳

2015年07月18日 | 登山


秋田駒ケ岳は美しい山である。八合目の登山道に立っただけで、男山、男女山の美しい山頂が目に飛び込んでくる。登山家の岩崎元郎の『新日本百名山』にも選ばれ、花の名山として紹介されている。前日、台風11号が中国地方を横断して日本海へ抜け北上途上で、雨が心配されたが、午後から雨というかすかな可能性にかけて実行された。参加メンバー7名、内女性2名であった。



登山コースはシャトルバスで八合目まで行き、主峰男女岳の北側をまくようにして、片倉岳の展望台から、木道を通って阿弥陀池。そして男女岳を登り返して、横岳、焼森から登山口へ周遊する。奇しくも、岩崎元郎が踏んだコースであった。先ず片倉岳展望台へ行く途中に見えたのは、斜面一面に広がるニッコウキスゲの大群落。そしてその先には、残雪を思わせるような田沢湖の幻想的な姿が広がっている。この時点で雨はぱらつく程度で、山の素晴らしい景観にその心配も吹き飛んでしまった。



土曜日ということもあって、多くの登山者が入山していた。グリーンツーリズムの団体30名が、前方にいたが、この日は珍しく我々のチームが団体を追い抜いて登ることになった。駒ケ岳という名の由来は、初夏の残雪の形に馬の形になるからであるらしい。全国にこの名を持つ山が、17もあり、還暦を記念して全国の駒ケ岳を踏破するグループがあることを岩崎の紹介で知った。



山道の整備は行き届いている。阿弥陀池へ至る道には木道を敷いて、湿地の歩行を確保している。標高1500mからは、すでに大きな木はなく矮性の木々のなかの山道も下刈りがしっかりなされて、足元を邪魔するものはない。地元の登山者が、山の情報を詳しく教えてくれる。雲のなかに頭を隠しているのが岩手山でるとか、薮の中で真赤に咲くのがエゾツツジ、黄色の花はミヤマダイコンソウ等々、地元の人でなければすぐに知れない知識ばかりだ。



主峰男女岳への登山道は砕いた石が敷き詰められている。その先は木材を使った階段状の道がジグザグに作ってあり、初心者でも安全で疲れないような設計になっている。頂上まで30分ほどの行程だが、足元が確保されているために、眺望の快適さも格段の向上しているようの感じる。主峰の頂上からは、岩手山、早池峰山、森吉山、鳥海山などの東北の高山が望めるはずであるが、雲が多くて、またの機会ということに。



エゾツツジが赤い花を咲かせていた。そのそばには、すでに花を終えたチングルマの髭が見えている。時おりガスが吹き上げるようにして、男山や男女山の山頂を見えなくする。団体の登山者もいたが、山は落ち着いて静かなたたずまいだ。ふるさとの懐に抱かれたような安心感を覚える。ここは秋田という土地柄のせいなのだろうか。秋田生まれのAさんの土地の案内もあって、いい山行となった。



焼森には草木のない禿山である。道脇には柵が設けれて、迷わないように工夫されている。砂礫のなかに目をこらすと、高山植物の女王といわれるコマクサがポツポツと姿を現す。目を左に向けると、先刻登った主峰がどっしりと存在感を示している。



柵のなかにコマクサが咲いていた。早朝から遠方に来てくれたことへ褒美であろうか、コマクサの群落は微笑みかけているような表情であった。雨が来たのは、焼森から下山する道へ入ったところであった。ここでカッパを着る。下山は40分ほどだが、強い雨が降りしきった。八号目の休憩所でカッパを脱ぎ、バスで車を置いたアルパこまくさへ。ここで温泉に飛び込むように入る。温泉は乳頭温泉のように硫黄泉で白濁して気持ちがよい。疲れを癒し、濡れた身体をケア。山行無事終了。歩行距離6.2キロ、歩行時間4時間半ほど。自宅4時10発、帰宅19時。

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緑のカーテン

2015年07月16日 | 日記


居間の西側にあるベランダから西日が入る。高温になるこの季節、6時過ぎからの西日は暑く眩しい。ゴーヤを植えて西日を遮るようにしてから5年ばかりになる。ようやく蔓が伸び、葉がおおきくなってやっと役目を果すようになった。西日が深く入り込む時期とゴーヤの伸びはいつも競争状態だ。わずかに植える時期が遅れると、カーテンの役目を果さないから困ること夥しい。

田中修『植物はすごい』(中公新書)を買ってきた。キャベツの種は1.5mg、成長したキャベツは1.2㎏になる。芽が出て4ヶ月後にはこの重さになるから、実に24万倍の高度成長を遂げたことになる。色んな視点から植物のすごさにスポットをあてた本に興味を持って買ってきた。ゴーヤを苗で植えてから、2カ月ほどだが既に100倍くらいの成長をしたようだ。これから蔓は縦横に伸びて、隣の建物からの目隠しの役割も果たしてくれる。
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坊ちゃんカボチャ

2015年07月15日 | 農作業


炎暑を避けて早朝に畑へ水遣り。今年初めて坊ちゃんカボチャを収穫する。カボチャは葉に隠れるように実をつけるが、取り出してみると自然の造形の美しさに思わず目を奪われる。歳時記を繰ると、カボチャは初秋に入っている。セミが鳴きはじめたばかりで季節は秋へと進んでいる。そういえば、朝の明るくなる時間が少しづつ遅くなっている。

かぼちゃ咲き貧しさがかく睦まする 能村登四郎

戦後の食糧難の時代、カボチャは代用食の代表であった。小学校の昼食の時間、満足な弁当を持ってくるものはいなかった。校長先生が教壇の上で皿に大盛りにしたカボチャを美味しそうに食べていた。友達と掌を開いて見せ合った。どの手もカボチャで黄色くなっていた。成人してからしばらく、カボチャを口にしなかった。貧しい戦後の時代を悲しく思いだすからだ。

そんな食へのかたよりもいつのまにかなくなっている。坊ちゃんカボチャの甘さが、食べた後でまた食べたくなる。今年はカボチャに加えてメロンも植えたので、今から収穫するときを楽しみにしている。
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蝉の初鳴き

2015年07月14日 | 農作業


三日続きの猛暑日。人間も体調を崩しかねないが、畑の野菜たちもこの猛暑に耐えている。高温に加えて少雨。茄子やキュウリへの水遣り、種をまいたニンジンや里芋、生姜にも水遣りが欠かせない。5時半の時点で気温は26℃となっていた。畑につくと、柿の木の葉の間から、ニイニイゼミの鳴き声が聞こえてきた。例年では、夏休みが始まる頃に鳴きはじめると記憶しているが、それからすると、一週間ほど早いことになる。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉

芭蕉が奥の細道の旅で、山寺の立石寺に行き、その折に詠んだ有名な句である。この蝉の声が、ニイニイゼミかアブラゼミかで人知れぬ論争が起こった。方や山形を代表する歌人斉藤茂吉、方や夏目漱石の門弟小宮豊隆である。アブラゼミ説の茂吉は、岩にしみ入るほどの鳴き声は、アブラセミの群鳴でなければならないとし、小宮説では糸を引くような澄んだニイニイゼミの鳴き声を方が岩にしみ入るに適当とした。

そこでセミの鳴き始めの時期がこの論争のポイントとなった。芭蕉が山寺に入ったのは、陽暦で7月20日ぐらいのことであったから、このころ鳴いているのはニイニイゼミで、アブラセミが鳴くのはもっと遅いと、小宮は主張した。そこで、茂吉は山形在住の門弟や親戚を動員して、山寺で鳴くセミを捕獲して調べさせた。結果は少しだけアブラゼミが混じっていたものの、ほとんどがニイニイゼミで、小宮説に軍配が上がった。

5月中旬ころに新緑の山へ入ると、春ゼミが耳を破るよう鳴いているが、柿の葉の間から鳴くニイニイゼミはよく注意して聞かないと分からないような静かな鳴き声である。蝉しぐれになると、アブラゼミの大合唱が始まる。沖縄に行ってクマゼミの鳴き声を聞いたときは、そのあまりの大きさに驚いたものである。鳴き始めの時期も、今日初めて聞いたが、その場所でも差があるらしい。



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安食岳帥先生吟の足跡

2015年07月13日 | 詩吟


7月12日(日)に山形岳風会山形地区本部の第21回吟詠大会が開催された。大会の中核をなす構成吟は、先ごろ亡くなられた安食岳帥先生の山形岳風会での詩吟の足跡を偲ぶものであった。安食先生は、自らが所長を務める第一貨物中央研修所で教科に詩吟を取り入れ、山形岳風会の佐藤会長を講師に招聘した。全国から中学を卒業して、この研修所に集まる少年を、ドライバーとして育成するための一助ととして詩吟を取り入れたのである。

研修所の学生たちが学んだ吟の一例をあげると、朱熹の『偶成』である。

少年老い易く学成り難し

一寸の光陰軽ろんず可からず

未だ覚めず池塘春草の夢

階前の梧葉巳に秋声

たった四行のこの詩から、学生たちが学ぶことの奥は限りなく深い。こんな精神を身につけたドライバーが世に送り出されたことは実に感慨深いものがある。

安食先生は上山に生まれた。日本の宿古窯の社長であった佐藤信二氏との親交は、安食先生の吟の世界を広げるものであった。上山に生まれた斉藤茂吉の和歌を、詩吟に取り入れ、誰もが口ずさんだ歌を吟ずることで、難しい詩吟を身近なものした功績は特筆すべきものである。

ながらえてあれば涙のいづるまで最上の川の春をおしまむ 斉藤茂吉

古窯の佐藤信二氏もまたこよなく茂吉を愛した。そして詩吟は安食先生の指導を受けた。山形岳風会の吟魂碑の建設も、佐藤氏の土地を借用したものである。安食先生は、誰もが手がけたことのない茂吉の和歌に吟譜をつけ、茂吉秀歌にふさわしい吟調を心がけている。

山形岳風会の吟詠大会の構成吟の台本、舞台構成はほとんど安食先生が手がけられた。郷土の歴史や文化を発掘し、郷土を詠った漢詩、和歌、俳句を網羅して堂々たる舞台を構成した。それは、安食先生の研究によるものである。実に山形岳風会の屋台骨を背負った存在といえよう。安食先生の逝去とともに、詩吟愛好家の数は減少の一途を辿っている。安食先生の死は、山形詩吟界のひとつの時代の終焉を意味している。

戦後の高度成長のポテンシャルが、安食先生のような人物を生み出した。しかし、時代は変貌を遂げたために、このような人物の輩出を期待することはできない。新しい時代にふさわしい詩吟の意味を見つけることが必要である。そうでなければ詩吟は、これからの若い世代に受け入れられないのではないか。
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