7月12日(日)に山形岳風会山形地区本部の第21回吟詠大会が開催された。大会の中核をなす構成吟は、先ごろ亡くなられた安食岳帥先生の山形岳風会での詩吟の足跡を偲ぶものであった。安食先生は、自らが所長を務める第一貨物中央研修所で教科に詩吟を取り入れ、山形岳風会の佐藤会長を講師に招聘した。全国から中学を卒業して、この研修所に集まる少年を、ドライバーとして育成するための一助ととして詩吟を取り入れたのである。
研修所の学生たちが学んだ吟の一例をあげると、朱熹の『偶成』である。
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽ろんず可からず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉巳に秋声
たった四行のこの詩から、学生たちが学ぶことの奥は限りなく深い。こんな精神を身につけたドライバーが世に送り出されたことは実に感慨深いものがある。
安食先生は上山に生まれた。日本の宿古窯の社長であった佐藤信二氏との親交は、安食先生の吟の世界を広げるものであった。上山に生まれた斉藤茂吉の和歌を、詩吟に取り入れ、誰もが口ずさんだ歌を吟ずることで、難しい詩吟を身近なものした功績は特筆すべきものである。
ながらえてあれば涙のいづるまで最上の川の春をおしまむ 斉藤茂吉
古窯の佐藤信二氏もまたこよなく茂吉を愛した。そして詩吟は安食先生の指導を受けた。山形岳風会の吟魂碑の建設も、佐藤氏の土地を借用したものである。安食先生は、誰もが手がけたことのない茂吉の和歌に吟譜をつけ、茂吉秀歌にふさわしい吟調を心がけている。
山形岳風会の吟詠大会の構成吟の台本、舞台構成はほとんど安食先生が手がけられた。郷土の歴史や文化を発掘し、郷土を詠った漢詩、和歌、俳句を網羅して堂々たる舞台を構成した。それは、安食先生の研究によるものである。実に山形岳風会の屋台骨を背負った存在といえよう。安食先生の逝去とともに、詩吟愛好家の数は減少の一途を辿っている。安食先生の死は、山形詩吟界のひとつの時代の終焉を意味している。
戦後の高度成長のポテンシャルが、安食先生のような人物を生み出した。しかし、時代は変貌を遂げたために、このような人物の輩出を期待することはできない。新しい時代にふさわしい詩吟の意味を見つけることが必要である。そうでなければ詩吟は、これからの若い世代に受け入れられないのではないか。