常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

百日紅

2015年07月11日 | 日記


近所の公園の百日紅が咲いた。最近この公園は、近くの保育園の園児たちが来て、遊具で遊んでいる。カメラを持参して花を撮影していると、園児たちが珍しそうに集まってくる。保母さんが来て、「あのおじいさんですか」と聞いてきた。「近所のものですが写真を撮っています」というと、「これ何の花ですか」と聞く。「ああ、百日紅」「ええ、これが百日紅?初めて知りました」という。このごろ公開になったアニメの「百日紅」は知っているらしい。

いまは亡き杉浦日向子の漫画「百日紅」をアニメ化したものだ。この作品は絵師葛飾北斎とその娘お栄を主人公に、江戸の話を繰り広げる楽しい漫画である。百日紅は、この花が梅雨明けのころから秋分のころまで、たくさんの花を咲かせうる百日紅を、多作の画家北斎になぞらえたものらしい。生前の杉浦日向子は、江戸っ子を現代に生かしたような人で、酒を愛し、蕎麦を愛し、銭湯を愛した人であった。蕎麦好きが嵩じて、電車に乗って山形そばを食いにきた。そのついでに居酒屋で、山形の酒を飲む姿が懐かしい。テレビの江戸を舞台にしたお笑い番組があったが、その時代考証を受け持ち、「江戸の隠居」を自称していた。
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2015年07月10日 | 農作業


夕方に畑で草取りをすると、蚊がまとわりついてくる。半そでで手を出していようものなら、あっという間に、3、4箇所刺されている。すでに、毒がまわって腫れてかゆくなるが、ここで搔かずにがまんすることが肝要である。かゆみを我慢して10分、腫れは少し広がっている感じだが、かゆみは消えている。搔くことで新たなかゆみが出て、がまんができず、皮膚を搔きこわす結果になってしまう。

鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂 漱石

明治30年、漱石は西南戦争の激戦地であった田原坂を訪れている。この年、漱石は熊本の第五高等学校の教師に赴任している。その折に、戦場を見に田原坂を訪れたのであろう。今は古戦場の史跡となっているが、当時はまだ激戦の跡が生々しく残されていたであろう。西郷軍の抜刀隊が、蚊の針のぐさりと刺すことを連想させている。

雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年

田原坂は、こんな民謡に唄われ、西南戦争を偲ぶよすがとなっている。
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岩手山

2015年07月09日 | 日記


7月25日の山行は、岩手山を計画している。高速の東北道を滝沢で降り、馬返しのキャンプ場からから登り、八合目の山小屋で一泊。翌日に頂上を経て下山するコースだ。深田久弥の『日本百名山』では、「雄偉にして重厚、東北人の土性骨を象徴するような山」と紹介されている。この山の麓で育った石川啄木にとっては、故郷のシンボルの山であった。東京へ出て文学を志した啄木が、執筆に疲れて思い出すのはこの山の姿であった。

かにかくに渋谷村は恋しかり
おもひ出の山
おもひ出の川

ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はなつかしきかな

馬返しから8合目の避難小屋まで、約1000mの高度を登る。並みの登山者の脚で5時間を要する行程である。登山道を彩る夏の花、コマクサ、ウスユキソウ、シオガマ、シモツケなどに会えるのが楽しみである。
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合歓の花

2015年07月08日 | 漢詩


今年は花が咲くのが一般に早い。学校のグランドの脇に生えている合歓の木の花がもう終りを迎えている。この花を見ると思い出すのが、江馬細香の漢詩だ。あたかもこの季節の合歓の花を詠んでいる。

 夏の夜 江馬 細香

雨晴れて庭上竹風多し

新月眉の如く繊影斜めなり

深夜涼を貪って窓を掩わざれば

暗香枕に和す合歓の花

あまり暑いので夜窓を開けて寝ていると、あの合歓の花の甘い香が枕もとに忍びよってくる、というのだ。女流の艶かしさ、官能を思い起こさせる詩である。
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七夕

2015年07月07日 | 万葉集


牽牛と彦星が、7月7日の夜に、年に一度の逢瀬を持つというのは、中国の説話である。この話が我が国にも伝わり、天の河の星を見ながらこの二星の出会いを想像しながら、歌を詠むののは、宮中の宴での風流な遊びであった。

我が恋を夫は知れるを行く舟の 過ぎて来べしや言も告げなむ 万葉集・1998

年に一度しかない逢瀬。待ちに待った夫が、通り過ぎてしまった。しかも言伝もなしに。このような状況設定は、女心の切なさ、やるせなさをいやがうえにも増幅させる。この歌は柿本人麻呂が詠んだものである。歌の意を記せば、私の恋の辛い思いをあの人は知っている筈なのに、沖を行く舟のように、ここに寄りもしないで行ってしまうなんていうことがあってよいものでしょうか。せめて言伝てだけでも欲しい。

街の通りには、竹を切って軒端に立て、短冊に願いを書いたものをその枝に吊るす風景があちこちに見受けられる。
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