常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

夾竹桃

2015年07月06日 | 


夾竹桃はインド原産で、暖地によく生育する。北国生まれの私には、知らない花であった。若いころは山形にも夾竹桃はなく、転勤で水戸へ行ったとき初めて見た。赤い八重咲きの花が多いが、白い花もあり、長い葉と楚々とした花の姿が美しい。

夾竹桃ピカドンの日をさりげなく 平畑 静塔

広島に原爆が落ちた日、人間だけではなく、植物も動物も一様に原爆の熱線に打たれて死んだ。わずかに生き残った犬が、枯れて死にそうになた夾竹桃の小さな木に、水に濡らした身体をブルンブルンと振ってかけた童話がある。緒方俊平『夾竹桃物語わすれてごめんね』である。この童話はネットに公開されている。死に絶えた広島に街に、原爆の翌年には夾竹桃の花が咲いた。物語では、献身的な犬のおかげになっているが、夾竹桃はあの死の灰にも耐えて生き延びた生命力があったのであろう。

作家井上光晴は『地の群れ』で、原爆の落ちた長崎で小学校の子どもたちが手毬歌を教えあっているという話が書いてある。「四月長崎花の町。八月長崎灰の町。十月カラスが死にまする。正月障子が破れはて、三月淋しい母の墓。」花も鳥も、人間も死に果てるという原爆をイメージした手毬歌である。井上は、この手毬歌は米軍が長崎にまいたビラを念頭に、この手毬歌を創作した、と語っている。そのビラの文言は、四月長崎花の町 八月長崎灰の街 というものであったという。
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北月山登山道と神代杉

2015年07月05日 | 登山


ピークハントだけでない自然とのふれあい。そんな楽しみ方も忘れてはならない。戸沢村古口の最上峡にある神代杉を見てきた。樹齢1000年以上、幹周り15mもある圧倒的な存在感を示す神代杉が、数多く残されていた。天然杉は植林して枝打ちしたものとは違い、株立ちする複数の幹を有している。その幹の間に10名ほどの人が記念撮影できるほどの大きさだ。

古来、人は生活を杉を多様に取り入れてきた。建築用材として言うまでもないが、酒樽として貴重であったし、葉は線香を作るのに用いられてきた。杉を巨木にするには、雨や雪が必要である。屋久杉が樹齢5000年と言われて有名だが、ここは一年中雨の降るような多雨地帯である。最上峡は雨も降るが、冬の豪雪が杉の生育を促したと考えられる。京都の台杉も有名だが、一本の株から幹を数本立てて、切った形を面白くして、磨き丸太として利用する。

石上の布留の神杉神びにし 我れやさらさら恋にあひける 万葉集・1927

万葉集の寄物陳思の相聞として神杉を使った歌がある。ここでは神杉を年老いたものとしているが、杉の長寿に畏敬を払い、神聖視してきた伝統がある。この杉林に来て、日本人が等しく感じるのは、その圧倒的な存在感であり、神の依り代としての杉への畏敬の念である。かわいい2歳の子を連れた若い夫婦が杉を見に来ていた。「いくつ?」と聞くと、ニッコリして杉の木を背にして頭に二本の指を出して見せてくれた。



陸羽西線。新庄を基点に余目に至る鉄道である。最上川に沿った、風光明媚な景観に恵まれた線路である。車を使うようになって、この路線で庄内に行くことはなくなったが、子どもたちが小学校の頃には、ここを走る汽車(SL)で海水浴に行った。北月山登山道の入り口へ向かう途中、偶然、踏み切りで電車通過のため、停車した。車内でカメラを構えて待つと、二両編成の電車が眼の前を通過した。電車の配色は、橋や自然景観にマッチしたものであった。偶然とはいえ、走る本数の減った路線で、この電車に会えたのは幸運であった。



気候は曇り。登山口で靴を履き替えているうちに雨となった。合羽を着用して、雨の上がりを期待して山中に入る。雨のなか、ガクアジサイの青い色が美しい。昨夜からの雨で、登山道の下草が濡れている。歩き出して間もなく雨は小降りになる。この日の参加者8名。4名づつ2班に分け、登りと下りで交差して、下りの人の車を登りの班が使う。登山開始7時30分、終点で11時30分。途中で雨は止み、足元も乾いて歩き易くなる。行程5.8キロ、登山道の北側には雪渓が見られる。ミズバショウの花はほとんど終わっていたが、一ヶ所だけ残っていた。

笹タケノコ、アマドコロ、シオデ。ほとんどが時期を過ぎていたが、今夜のヒトカタケ分だけ採ってくる。梅雨に入って気候は、急に不安定となり、山行も雨がどうなるか、難しい判断を迫られる。北月山荘で入浴(350円)、食事。名物の雑煮を食べる。地元産の餅米で作った餅が、腰があって美味しい。カボチャのサラダ、ミズのお浸し、ゴマ豆腐など手作り感のあるメニューであった。
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向日葵

2015年07月03日 | 


向日葵の花が咲いた。背が高く、茎の太い真夏のものではないが、蘂のありかや太陽を思わせる花びらは写真に撮ってみると実に堂々としている。メキシコ原産のせいかも知れないが、この花から立ち上がってくるのは西洋の香りだ。ゴッホが描いた花瓶に挿した向日葵の絵は、あまりにも有名である。例えば、

「日曜日の朝だ。地上の美しいあらゆるものの上に、この夏になって、まだかつてないほどのすがすがしい、柔らかい空が輝いている。窓は開け放たれ、庭の木の葉や花の上に太陽の光が明るく輝いているのが見える。私のためにうたってくれている鳥の声もいつものように聞こえる。時折、軒端に巣をつくっている岩ツバメがさえずりもせずにすっと飛んでゆく。教会の鐘はもう鳴りはじめた。遠近で鳴る鐘の音色を私はすっかり覚えている。」

ギッシングのこんな文章を文庫本のなかに見つけたときなど、庭に咲いている花のなかにあの向日葵の大きな花を思い出す。高浜虚子の句に、ゴッホを詠んだ句がある。

向日葵が好きで狂いて死んだ画家

今朝からテレビでは、ギリシャのデフォルトの話題が、これでもかというほど流されている。
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半夏生

2015年07月02日 | 日記


昼が一番長い夏至が過ぎると、自然界にはさまざま現象が起きる。暦でその現象を、びっくりするほど的確に表わしているのが、72候だ。夏至の初候は、鹿の角解つ。この時期は、全年に出た角が落ちて、新しい角が生えてくる。次候は、蝉初めて鳴く。さらに、末候が、半夏生ず。この時期に半夏という植物がその形を現す。半夏という植物はドクダミ科の多年草で、夏になると葉の一部が白く変色する。化粧を中途半端にしたので、こう呼ばれているらしい。

水がめに虫のわきたり半夏生 上村 占魚

農家にとってこの時期が大事な見極めの季節であった。田植えをこの時期までに終えるとか、梅干の梅はこの時期を過ぎてからのものを用いるとか、麦の収穫時期などに合わせたさまざまな風習がある。今日が半夏生で、この一週間後が小暑である。いよいよ本格的な暑さの夏まで、指折り数えるところまで来た。
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山ユリ

2015年07月01日 | 


7月に入って初めの日にベランダの山ユリの花が開いた。もう20年以上も前のことになるが、山の旅館に泊まったとき、お土産に貰った食用のユリ根を、鉢植えにして毎年花を観賞している。大きな鉢であるから、球根はたくさん分化して、何本も茎を出す。さすがに鉢のなかで増殖しすぎて、茎は細くなっている。掘り起こして植え替えをと考えているうちにその年が過ぎて、もう20年以上も経ってしまった。

すぐひらく百合のつぼみをうとみけり 安住  敦

ユリをなぜこう書くのか。ものの本によると、地中にある鱗茎、球根のことだが、これは根ではなく、葉が変形したものらしい。ここに養分を蓄えて、生命の源になっている。冬になって地上にある葉や茎は枯れてしまっても、この鱗茎は朽ちず、春になるとここから新しい芽を出して、夏にまた花を開く。この鱗茎がしっかりと重なり合っている形から、百合という漢字にあてたという説がある。

これからの季節、山の尾根道で山ユリに会うのは楽しい。いままで一番多く、この山ユリを見たのは、尾花沢の翁山である。地図学者の五百沢智也さんのご家族と、この翁山で山ユリを見ながら、気持ちのよい尾根道を歩いた。これももう20年も前のことだが、奥さんと息子さんが探鳥を楽しんでおられたのを思い出す。姿の見えない鳥の鳴き声をから鳥の種類をあてるのだ。鳴き声にじっと聞きいる姿は何とも可愛らしかった。

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