常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

冬枯

2015年12月13日 | 日記

 
埋めておいた大根3本を井戸水で洗う。手が切れるように冷たい。今日は、小雨が降りそうな空で気温は5℃、手が切れるようよに冷たいのもいたし方がない。近所の空き地の草木は、すっかりセピア色に枯れてしまった。

結びおきしひばりのとこも冬枯れてあらはれ渡る武蔵野の原 後鳥羽院

後鳥羽院といえば、平家滅亡後、安徳天皇を継いだ天皇である。中世屈指の歌人でもあった。新古今和歌集の撰進を命じたのも後鳥羽院であった。藤原定家、家隆、慈円など当代の一流歌人を撰進にあたらせたが、院自身がその撰進を指示し、歌の入れ替えを命じている。定家はこのことを切り継ぎといい、「切り継ににつぐ切り継」と日記に書き、選ばれて喜んでいる歌人の歌を捨ててしまうので、「罪深くこそはべれ」と慨嘆している。

後鳥羽院はどのような状況判断で、承久の乱を起こしたのだろうか。北条氏の振舞いに不満であった武士を糾合しようとして院宣を出したのであろうが、院が取った行動は神仏への義時調伏の祈祷であった。鎌倉の圧倒的な兵力を前になすすべもなく、隠岐へ流されることとなった。この島で後鳥羽院は、新古今和歌集の隠岐版の選集を進めた。
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スキー

2015年12月12日 | 日記


今日も小春日よりである。ラジオで言っていたが、小春とは旧暦の11月の内に言うもので、もう今日からは小春と言ってはいけないらしい。だが、庭のヤツデには生き残りの蜂やハエが来て、花の蜜を漁っていた。周りの環境は小春そのもである。蔵王には雪が降って、スキー場開きが雪の上でできたいうニュースが報じられた。

生き残る蠅が集えり花八つ手 松田 茂代

 スキーはスノボーに人気が移って、スキー場でシュプールを描くスキーヤーも少なくなってきた。スキーの起源は、雪の上を歩くカンジキが変化したという話もある。明治44年に雪の高田で歩兵連隊が、雪の上を滑ったのが、日本にスキーが登場した初めというから、やはり雪の上を移動する道具と考えられていたらしい。12月も中旬にさしかかると、普通に雪の景色が恋しくなる。伊藤整の詩「雪夜」が懐かしい。

あゝ雪のあらしだ。
家々はその中に盲目になり 身を伏せて
埋もれてゐる。
この恐ろしい夜でも
そっと窓の雪を叩いて外を覗いてごらん。
あの吹雪が  
木々に唸って 狂って
一しきり去った後を
気づかれないように覗いてごらん。
雪明りだよ。
案外明るくて
もう道なんか無くなってゐるが
しづかな青い雪明りだよ。

1920年から1926年までの伊藤整の詩集「雪明りの路」に入っているものである。整が20歳前に作った詩である。海辺の小樽は、吹雪く厳しい冬がやってくる。そんな雪の風景が似合う詩人である。




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疾風勁草

2015年12月11日 | 日記


植物は冬の寒さにも負けない。凍らないうに、実や葉に糖分を蓄え、寒風に耐えるために葉を地に這わせる。葉をロゼット状に広げることで、わずかの太陽の光でも、身体全体で受けとめている。霜が葉についても、朝の光がたちまちにとかせてしまう。こんな植物の強さを、疾風勁草と言った。「疾風に勁草を知る」という俚諺は、激しい風が吹いて初めて本当に強い草を知るという意味だが、人間にあてはめて、厳しい試練にあってはじめて、節操堅固な人間がわかるという比喩にも用いられた。

後漢の光武帝に、臣下の王覇を労った言葉がある。
「頴川で旗揚げして以来、わたしに従うものは皆去ってしまったが、そなただけは踏みとどまってくれた。疾風に勁草を知るとは、このことだ。」

冬にロゼット状に茎葉を広げるのは、もう一つの意味を持つ。その下に他の植物が侵入することを防ぐ場所取りをしている。やがて春がやってくると、自分が成長する場所を確保している。
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七歩の詩

2015年12月09日 | 漢詩


三国志で劉備と争った魏の曹操には、息子が25人いた。そのなかで傑出していたのは曹植である。父の問いにいつも即答し正鵠を得ていた。曹操は聡明な植をを寵愛し、兄をさしおいて後継に植をと考えたことも度々であった。気が収まらないのは長男の曹丕である。地味な兄ではあったが、取り巻きの必死の擁立運動で、後継争いは曹丕に軍配が上がった。曹丕が太子となるのは建安22年(217年)のことである。この年、曹植は27歳であった。太子になっても、曹丕にとって植は目の上のたん瘤のような存在であった。あるとき、曹丕は植に難題をふっかけた。「七歩歩くうちに詩を作れ。できなければ死刑にする。そう言われて作ったのが「七歩の詩」である。

 七歩の詩 曹 植

豆を煮るに豆萁を燃く

豆は釜中に在りて泣く

本是れ同根より生ず

相煮る何ぞ太だ急なる

豆を自分に、豆萁を兄に例え、同じ兄弟なのになぜこんな辛い仕打ちをするのか、と遠回しに非難する詩を作った。これを見て、曹丕は深く恥じ入ったと伝えられている。だが、曹植の文集にこの詩は見えず、後世の人の偽作らしい。だが、魏の王朝に、この兄弟の詩のようないやがらせがあったことは確かである。日本詩吟学院の教本に、曹植(そうしょく)を「そうち」と読んでいるが何故であろうか、手元の三国志関連の本をみてもそうした記述はない、ちょっと納得できない。


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蔓ウメモドキ

2015年12月08日 | 日記


秋の山を歩くと、大きな蔓ウメモドキの木に、赤い実がカラを割って出ているのによく出会う。これを見つけると、女性の仲間たちは枝を折り取って、生け花やお正月の飾り用に持ち帰る。緑が濃い季節は、他の木の葉に隠れて目立たぬ存在だが、秋の美しい実は誰の目にもとまる。よく出かけた居酒屋で、大きな甕にいっぱいになるほどのウメモドキを飾っていたのを見たことがある。いったん生けると、長持ちするので重宝である。もうあの店にもしばらく行っていなあ、とふと思い出している。

墓に入る径のつづきのうめもどき 木附沢麦青

12月にしては、日差しが強い。青空いっぱいの日の光である。畑の仕事もほぼ片付いて一安心だが、これから正月までいろいろな雑用に負われる。それにしても一年が過ぎていくのは早い。きのう大雪、あと15日経つと冬至である。小春のような天気だが、小春日和と呼べるのは明日までとラジオが言っている。明日は今年最後の小春日和になるらしい。
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