常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

帰り花

2015年12月07日 | 日記


しばらく低気圧の影響でぐづついた日が続いたが、久しぶりの青空である。龍山には白く雪が見えるが、近くの千歳山にはまだ雪が積もらない。散歩道にある家の庭に、ツツジの帰り花が咲いていた。紅葉した葉に花をつけているのが珍しかったので、パチリと一枚。杉本秀太郎『花ごよみ』に面白い句が載っていた。

呆けたか木瓜が思案の返り花

昨今、テレビの話題は認知症である。昔は呆けると言ったが、いい印象を与えないという理由で認知症という分かりにくい言葉を使っている。70歳代も半ばになると、物忘れもだんだんとひどくなって、認知症を心配する人がまわりに増えてきた。しかし、花が季節を間違えて咲くという現象は、呆けのせいではなく、気象の異常性にある。寒さのあとに、春を思わせるような暖かい日が続くと、花が咲くのは、花のなかにあるセンサーが気温に反応して花を咲かせる。まさに正常な植物の営みである。
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アガサ クリスティー

2015年12月05日 | 


アガサクリスティーはイギリスの一世を風靡した推理作家である。名探偵ポワロが活躍する「オリエント急行殺人事件」「そして誰もいなくなった」などの名作を読んだ人は多いだろう。アガサの作品は映画化もされ、昭和の日本でもなじみ深く、人気の作家である。

1926年12月3日、アガサクリスティー失踪事件が起きた。アガサの書く小説のような事件で、大きな話題になり、警察は総動員体制をとって、この有名作家の行方を捜した。新聞も連日大きく報道した。実はその日、アガサの夫が愛人を伴って週末旅行に出たことを知ったための失踪であった。自殺説、誘拐説などが乱れ飛んだ。そんなおり、アガサの乗っていた自動車が、道路上に乗り捨てられているのが発見された。延べ15000人の警察に加え、警察犬まで動員されたが杳として行方は知れなかった。

失踪から10日、アガサはヨークシャーの温泉に滞在していることが分かった。このホテルに偽名を使い、変装していたので誰に気づかれずいた。みんなが新聞で、アガサ自身が失踪している記事に首を突っ込んで興味深そうに読んでいたという。アガサがこんな突飛な行動をとったには、夫の浮気へ面当てという理由もあったが、直前に母親を病気で失い、すっかり気が滅入って意気消沈していたのが大きな理由であった。

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藤原家隆(2)

2015年12月04日 | 


「寛喜元年、女御入内の屏風」という詞書は後堀河天皇の女御として、前関白九条道家の娘竴子が持参する屏風絵に添えた和歌「風そよぐ奈良の小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける」に付けられたものである。屏風もその絵も、王朝のみやびを残しているかに見えるが、この時代はそんな生易しい時代ではなかった。

そもそも、後堀河天皇は、承久の乱で鎌倉を討とうしたした後鳥羽、土御門、順徳の三上皇を配流、仲恭天皇も廃位されて、直接乱に関係のなかったとして即位した。このとき後堀河天皇は10歳であった。即位して七年後の寛喜元年(1229年)、竴子は入内したのである。国は戦乱で荒れ果て、それに加えて寛喜の飢饉といわれる異常気象がこの国を襲った。すでに安貞の頃から以上気象による飢饉が続いており、寛喜に年号を改めたのお飢饉が理由であった。藤原家隆は荘園からの、収入を失い、貴族としての生活がすでに成立しなくなりつつあった。

寛喜3年2月には、入内した竴子に男子が生まれる。秀仁親王である。その4月6日に、道家の家で親王の御所始め祝宴が開かれた。こともあろうに、その祝宴に雑人3名ほどが階段を駆け上って乱入し、膳の食べ物を奪うという事件が起きている。京中に盗人が横行し、貴族はもとより、宮中さえにも押し入るという有様であった。道には横死した死骸があふれ、死臭が家のなかに入ってくるという地獄絵図さながらの光景を見せていた。雅な和歌は、この現実から逃れようとしたものようである。

藤原定家は、『明月記』に寛喜の飢饉の惨状を書き記している。6月には、「涼気仲秋の如し」と書き、真夏だというのに、冬の綿入れを着た。「万邦ノ飢饉、関東ノ権勢已下常膳ヲ減ズルノ由、閭巷ノ説耳ニ満ツ」この異常気象は、新星の大爆発という現象が宇宙で起きたためであるらしい。すでに源実朝が暗殺され、北条の時代となって、天皇の権威も地におちた時代である。新古今集の時代は、連歌の時代へと移ろうとしていた。家隆が最後の光芒を放って、和歌の時代が閉じられていく時期にさしかかっていたのである。
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梅颸夫人

2015年12月03日 | 


梅颸夫人は、頼山陽の母である。名は静子、大阪の儒者で医家であった飯岡義斎の娘に生まれた。19歳になって父の知り合いの媒酌によって、大阪に塾を開いていた頼春水に嫁いだ。この年春水は34歳の男盛りであった。15歳も年が違う、すでに儒者として名声のある春水に嫁ぐことは、若い女にとっては大変ことであったろうと思う。嫁いだ年の翌年、新夫婦のもとに春水の父亭翁が訪れている。二人は父を伴って京都の旅を楽しんでいる。梅颸はこのときのことを、日記に書き残している。酢茎や筍などを、春水の友人からご馳走になった。

山陽を産み落としたのは、この年の暮れも押し詰まった12月27日のことであった。春水は浅野家のご儒者となり、一家は広島に住んだ。そして春水のみが、殿様のいる江戸詰めになり、梅颸と山陽は広島に残った。父のいない広島で、梅颸は山陽を育てた。20歳になったばかりで、子を育て留守を守って一家を切り盛りすることも容易なことではなかった。日々の出来事を日記にして、江戸の春水に報告した。この日記は山陽の日々が細かく書かれていたので、山陽の生い立ちを知るまたとない資料になっている。

幼児時代の山陽は、ひよわで癇癖が強く、母の手がかかる子であった。父は厳しく山陽に接し、江戸からもこまかく生活の指針を言って寄越した。年頃になって、山陽は父の言いつけを守ろうとせず、京都出奔、帰国監禁、妻の離婚廃嫡、茶山塾の塾頭になるも再び京都出奔と梅颸夫人を安心させることはなかった。厳しく接する父とそれに反抗する山陽との間で、どれほどの苦労を重ねたであろうか、察するにあまりがある。

文化13年になって、春水が死去した。京都で塾を開いていた山陽は、この頃押しも押されもせぬ儒者であり漢詩人になっていた。若いころから心配をかけ通しだった母への思いは強まる一方であった。そんな心情を詠んだ漢詩がいくつも残されている。

 母を思う 頼山陽

秋風吾を吹いて冷やかなり

還吹いて木葉を飛ばす

吹いて故園の樹に到るも

侵す莫かれ慈母の衣を
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菊花

2015年12月01日 | 漢詩


今日から師走。もう例年であれば、平地に雪が降っている季節である。田んぼのあぜ道に春に咲く花が咲いている。寒暖が交互にやってくるので、花たちも咲く時期を間違えるらしい。そんななかで、初冬の花は何といっても菊の花にとどめをさす。今日の詩吟教室で習ったのは、白居易の『菊花』である。

一夜新霜瓦に著いて軽し

芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く

寒に耐うるは唯東蘺の菊のみ有りて

金粟の花は開いて暁更に清し

敗荷というのは、蓮(ハス)が枯れたもので、それが倒れている。東の籬の菊だけが、寒さにめげずに咲いている。古来、菊の花を酒に浮かべて飲む習慣は、この菊の強さを愛でたことにある。事実、霜枯れた庭に、これほど爛漫に咲く菊には、人間の身体を守る霊力あると信じられてきた。どの花びらも霜におかされることもなく、黄金色に輝いて、あたりの風景を清らかななものにしている。

白居易は75歳の人生を全うしたが、晩年親しく交わった友人たちが次々と先立って逝った。新酒に菊を浮かべて長寿を祈る飲酒を愛したが、その酒を汲み交わす友人が一人、二人と亡くなっていく。醒めて時間を過ごすよりも、酔うことに人生の喜びを感じた白居易である。ともに汲み交わす友がいなくなることは余りにも切ない。寒に耐えて咲く菊花と、己の晩年の生を重ね合わせたのが、この詩のモチーフになっていたのかも知れない。
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