常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

安倍晴明

2015年12月17日 | 


フィギアスケートのGFフリーで羽生結弦選手が世界最高得点を出した演技の楽曲が映画「陰陽師」のものであったため、陰陽師・安倍晴明の名が一躍クローズアップされている。口元で指を二本立てるのは印を切るポーズだし、手の平を頭上で天に向けるのは、天の気を受けるための陰陽師独特のしぐさだ。

陰陽師とはどのような存在か。藤原道長といえば、平安貴族の栄華を一身に背負う関白であるが、その時代の京の都は、怨霊や百鬼夜行の鬼が横行し、人をとり殺す疫神の恐怖に満ちていた。反閇はへんばいと読む耳慣れない語だが、天子が出御するさいに、陰陽師が行う秘法のことである。京の街には邪気が満ちており、天子がその邪気に犯されないようにお祓いをするのである。その際には、指で印を切り、呪文を唱える。これが陰陽師のもっとも大きな役割であった。

安倍晴明は延喜21年(921年)、摂津の国阿倍野(現・大阪市阿倍野)に生まれた。晴明は幼少のころから、不思議な霊力をもっていたいう説話が伝えられている。賀茂忠行という陰陽師の弟子になっていた晴明は、師の乗った牛車の後を歩いていくと、前方に鬼が見えた。驚いて車の中の師を起こして鬼が見えると伝えた。忠行は術を使って自分や伴のものを消して、鬼の前を無事に通り過ぎた。鬼は目に見えるものではなかった。幼い目で鬼を見た晴明を見込んで、師は陰陽師の道を教え込んだ。

安倍晴明は藤原道長からも重く用いられた。道長が物忌みのとき、観修僧正、晴明、医師忠明、義家が一緒に参籠していた。おりしも南都から早生の瓜が献上されてきた。道長が、「物忌み中にこのようなものを貰ってもよいものだろうか」と、晴明に占わせた。晴明は、「瓜の一つに毒があります」と言って、その中の一つを取り出した。観修が加持するとその瓜が動き出した。忠明が瓜をまわしながら二ヵ所に針を立てた。義家が腰刀で瓜を割ると、瓜の中には蛇が入っていた。針は蛇の両目に立ち、蛇は頭を切られていた。(『古今著聞集』)

晴明の説話は多彩で、その活躍した舞台は、京の朝廷から日本諸国、遠く大陸の唐にまで及んでいる。晴明の高名を聞いて技比べに挑んだ陰陽師・道満との対決は、浄瑠璃などで広く物語られてきた。一度は道満に妻を寝取られ、首を刎ねられるが、唐の師伯道が墓から骨を集めて蘇生させるという芸当を見せて、道満と裏切った妻を死へ追いやった。
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落合直文

2015年12月16日 | 


明治の国文学者で教壇に立ち、和歌をよくした落合直文が亡くなったのは、明治36年12月16日のことである。43歳の若さでこの世を去った。気仙沼に生まれた直文は、明治14年に上京して東京帝大国文学科に入学、中退して兵役をつとめたが、その後国文学の教授として教壇に立った。学生に慕われ、名教授の名をほしいままにした。森鴎外と同人となって新声社を結成、共訳詩集『於母影』を刊行。その後浅香社を立ち上げ、与謝野鉄幹などを育てた。

落合直文といえば、想起するのは白菊物語である。「孝女白菊」は西南戦争の時代に行方知れずになった父を探す、孝女の物語であるが、井上哲二郎の長詩を直文が新体詩に直すと、爆発的な流行を見せた。

阿蘇の山里秋ふけて 眺さびしきゆふまぐれ
いづこの寺の鐘ならむ 諸行無情と告げわたる」
をりしもひとり門にいで 父を待つなる少女あり」
年は十四の春あさく 色香ふくめるそのさまは
梅かさくらかわかねども 末たのもしく見えにけり」
父は先つ日遊猟(かり)にいで 今なほおとづれなしとかや」
軒に落ちくる木の葉にも 筧の水のひゞきにも
父やかへるとうたがはれ 夜な夜な眠るひまもなし」
わきて雨ふるさ夜中は 庭の芭蕉のおとしげく
なくなる虫のこゑごゑに いとどあはれをそへにけり」
かゝるさびしき夜半なれば ひとりおもひにたへざらむ
菅の小笠に杖とりて いでゆくさまぞあはれなる」

少女の生い立ち、物語の展開、兄による救済、そしてハッピーエンドの大団円至る新体詩の調べは、当時の読者の涙を誘わずにおかなかった。

また落合直文は、子供が好きであった。死の3年前、大病で床についている直文の様子を見にきた我が子の様子を歌に残している。

父君よけさはいかにと手をつきて問ふ子をみれば死なれざりけり

明治の時代の空気が伝わるさわやかな歌である。直文は萩の花を好んだ。庭には萩の花をたくさん植え、直文の屋敷は萩の舎と呼ばれた。

萩寺の萩おもしろし露の身のおくつきどころこゝと定めむ
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シクラメン

2015年12月15日 | 


この季節になると、シクラメンの鉢の花をよく見かける。そのけがれのない花に目を奪われる。白の花も気高い雰囲気をかもし出す。この花の名はどんな由来があるのか、つい気にかかる。ものの本によれば、ギリシャ語のSYCLE、まるいからきているとのことだ。花が円を描くように丸く咲くことに起因しているのだろうか。よく分からない。

ところが、豚の饅頭というのが、日本で早くつけられた名前らしい。こちらは、球根を豚の餌にすることから、sou blead豚のパンを日本語に訳して豚の饅頭なったのだという。花のゆたかな気品をみると、この名はいかにも似つかわしくない。

日はすでに暮れた。森は神秘的だったが

子牛の群れの足元に シクラメンの花が真紅に咲き乱れ、

一樹一樹つばらかに 樅の喬木が残照にてりはえていた。

『マルテの手記』を書いたオーストリアの詩人リルケは、シクラメンの花をにこんな風によみ込んでいる。シクラメンは冬に咲く花であるが、他の花と同じように日光を好む。

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浅井忠

2015年12月15日 | 


明治の洋画家浅井忠がこの世を去ったのは、明治42年12月15日のことである。享年52歳である。今の世であれば、これからという年齢である。明治8年、イギリスから帰った国沢新九郎が、東京麹町に洋画塾を開いていたが、千葉の佐倉に生まれた浅井忠は、この塾の門を敲いた。ここでは外国人の教師が教えていたが、教師と生徒の関係が悪く、浅井忠は塾生11人とともに退学した。

この退学性たちが十一会という名で、洋画の研究を続けた。昼間はモデルを雇って写生の勉強をし、夕方から相撲や剣術で身体を鍛えるというやり方で画家の品格向上を目指すユニークな存在であった。ところが、この時代の意識の揺れは大きく、絵画の世界にも様々ことが起こる。なかでも、洋画を排斥し伝統の日本画を守るという風潮が起きた。浅井忠はこのような風潮のなかで苦労することになった。挿絵の仕事や絵手本づくりでやっと糊口を凌いだ。

明治19年に東京府工芸共進会に、6尺に及ぶ大作の洋画30枚を出品して世に認められることになった。美術学校に洋画科が設けれると、そこで教授となり、フランス留学を命ぜられ、帰国すると京都工芸学校の教授となった。画風は自由自在で、何物にもとらわれない、人格がそのまま絵に現れるような闊達なものであった。油彩よりも水彩で、筆の扱いも無造作で、下絵なしに絵にとりかかることが多かった。



浅井忠は友達と音楽の話になって、笛、尺八、三味線と好みをいううなかで木魚と言って周りを驚かせた。秋の林のパラパラと葉の散る音がして、そこへ寺で木魚を敲く音が聞こえてくる、それがいいというだ。友人は忠のことを木魚先生と呼ぶようになった。これを自らの号に選んだ。
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南天

2015年12月14日 | 日記


南天はこの秋からだけでこのブログに3度目の登場になる。今回は青空に映える白い実が美しかった。漢名で南天燭。この名は赤い実が相応しいだろう。南の空、南国の燭は赤を連想する。中国では新年に先祖のみ霊を祀る寺廟の祭壇や家、船に飾っている。日本でも難を転ずる縁起物として古来珍重された。戦国の武士は、床の間にこの実や枝を挿して出陣したと伝えられる。赤い実に白い雪を被る姿が美しいが、今年はまだ平地に雪がない。

南天の実に惨たりし日を憶ふ 沢木 欣一

昨日、13日は煤払いの日。神社お寺などで大掃除が行われる。山形の岳風会館の大掃除、脚立に登って蛍光管の埃を取った。例年の行事だが、この掃除が住むといよいよ歳末である。我がアパートのアプローチにはクリスマスツリーが光を放っている。人工の燭りは、やはり自然の輝きには敵わない。


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