常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

夢を生きる

2019年07月19日 | 日記

明日は鳥海山へ小屋へ泊っての山行。心配された雨も、ピンポイントで晴れ間が覗いている。昨夜、鳥海山のお花畑に咲く花を頭に描きながら就寝した。私は、殆ど夢をみることがない。みても、寝ている内に忘れてしまうようだ。だが、昨夜は妙にはっきりとした夢をみて、そのために起きてしまった。その内容は、仲間の人たちと、山に向かう車のなかだ。何かは分からないのだが、山に登る用品を忘れたことに気づき、取りに戻る。すぐにまた忘れもの気づきまた取りに戻った。同じことを、その車で3度も繰り返した。

夢のなかで何を忘れたかも定かではないが、そのショックで山登りを止めることを決断する。仲間が複数いたのだが、Sさんだけがはっきりしていて、その決断はいい事だと言う。自分は、もう年だし、いつ山を卒業するか迷っていた、などと話をしている。北アルプスの参加を予約していたのでキャンセルしなければと思い、明さんに電話をする。明さんは、意外に冷静で、私の話を受け入れてくれたところで目が覚めた。こんなにはっきりと夢を見たのは、もう何十年ぶりことなどで、妻にも夢の話をする。

最近、ひとつの山に登ると、もうこの山には登れないな、とよく思うんだよ。妻に言うと、「あなた、昔からよく車に忘れ物しているよ。」と妻が言う。言われてみれば、物忘れは若い時からで、高齢になってそのことの不安が高まっているのかも知れない。

河合隼雄の『明恵夢を生きる』を取り出して拾い読みをする。仏僧の明恵は、自分の見た夢を克明に記録し、夢を悟りの境地へ辿るよすがとしている。

夢に云はく、屏風の如き大盤石の尖りを歩みて、石に取り付きて過ぐ。弟子の義林坊、前に過ぐ。成弁(明恵)、又同じく之を過ぐ。糸野の御前は、成弁とかさなりて、手も一つの石に取り付き、足も一つの石の面を踏みて過ぎらる。成弁あまりに危ふく思ひて、能々之を喜びて過ぐ。安穏に之を過ぎ了りて行き、海辺に出づ。

夢の中で明恵は、糸野御前と心を合わせて、大岩の難所を過ぎたのだが、この女性との関係の一端を示している。かつて御前とその子供を難病から救い、御前は明恵に春日明神のご託宣を伝える役割果たしている。

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野菜生活

2019年07月18日 | 日記

梅雨寒を抜けて、30℃を記録する日々。湿気が多く、非常の蒸し暑い。こうなると、野菜の成長は半端ではない。インゲン、ズッキーニ、オクラ。毎日収穫しないと、大き過ぎて、食べごろを逃す。台所中が野菜だらけになっている。今年ほど野菜を食べた年はない。畑に行って、ナツナが伸びている姿は、もうすでに美味しそうだ。そんななか、トマト、キュウリ、ナスの御三家は、どうも生りがよくない。ここしばらく続いた低温が影響しているらしい。

いきおい、食卓は野菜づくし。生キュウリの瑞々しいおいしさが、こんなんであったか。日々押し寄せる野菜の洪水にうれしい悲鳴を上げる。今夜は野菜の大量消費にラタトゥイユを作った。この料理も長く作っているが、野菜の鮮度、成長ぐあい、生のバジルやパセリも、そのおいしさに一役買っている。

今年の畑づくりは、バジル、コリアンダー、モロヘイヤを多く植えた。そのため、バジルは食べ尽くす前に次々と伸びてくる。バジル味噌への挑戦。バジルのみじん切り1カップ、味噌1/2カップ、料理酒1/4カップ、オリーブオイル1/8カップ。これを混ぜ合せて火にかける。弱火ゆっくり練り込んでできあがり。冷まして冷蔵庫に入れておけば様々に利用できる。バジル味噌の蒸し茄子、スパゲッティのバジル味噌ソース。これには、シイタケやシュンギクを使う。


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山に抱かれて

2019年07月17日 | 日記

最近、山登りをしながら、ふと感じることがある。これからの人生であと何回山に来ることができるだろうか。足の疲労を感じながら、もうこの山に来るのは、これが最後か。ブナの緑に美しさに感動しながら、それと同じ量の淋しさがある。高村光太郎の詩に、「山」がある。

山の重さが私を攻め囲んだ

私は大地のそそり立つ力を心に握りしめて

山に向った


山はみじろぎもしない

山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した

たまらない恐怖に

私の魂は満ちた

ととつ、とつ、ととつ、とつ、と

底の方から脈うち始めた私の全意識は

忽ちまつぱだかの山脈に押し返した

この詩にには、山の本質が示されている。山の凄さ、自然の大きさの前に、恐怖しながらも、全意識を持って立ち向かう人間の強さが同時に示されている。自分は30年間も山に親しんできたが、こんな意識で山に向かったことがあったであろうか。もう一度来る、ということが許されない年齢になって、やはり光太郎の山に向かう姿勢には、心うたれるものがある。

 

 

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桔梗

2019年07月16日 | 

万葉集に山上憶良が秋の七草を詠んだ歌がある。「萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花また藤袴 朝貌の花」で、最後の朝顔が桔梗であるとする説が最有力である。秋の七草であるのに、梅雨明けがまだの真夏にもう咲きはじめている。こうしてそれぞれが、自由に向きたい方へ咲くさまは、ちょっとおきゃんな女の子を思わせる。なかには、この花に成熟した女性の色気を見出す人もいる。雨にぬれた桔梗の紫は、言われればはっとする美しさがある。

「蟻の火吹き」という名が古く平安時代から行われてきたらしい。この花には蟻酸が含まれていて、蟻が齧るとこの酸の作用で蟻の身体が赤く変色するらしい。古い時代の人は、蟻のそんな生態にも注目していた。

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鳥海山

2019年07月15日 | 読書

森敦の『鳥海山』を読む。この小説は、森敦が芥川賞を受賞した『月山』が文庫になって、そこへ入れたものだ。この小説を読もうとするのは、今週末山頂小屋泊まりで鳥海山を登る予定があるからだ。月山の麓の集落で、お寺に籠っていた経験を持つ森は、鳥海をどんな眼で見ているか、興味がある。『鳥海山』は、この山と関わりのある掌編を集めて、こう名付けたものだ。その一つ、「初真桑」は、吹浦の鄙びた旅館に泊まり、隣室の行商人の話や、汽車で酒田へ出かけ、そのなかで出会う老人たちの姿を描いたものである。

「湿潤はこの地方の特色であるが、鳥海山は遥かな月山と相俟って雨雲を呼び、おのれに近づこうとする者に、いよいよ自らを隠そうとするからで、芭蕉に従った曽良も、酒田から砂浜を、二つの渡し渡って吹浦に着いたときは、小降りだった雨もどしゃ降りになっていたと言っている。」

森は吹浦の集落で、鳥海山がすっきり晴れた姿を見ることは珍しいと書いている。まして山の上では、身体ごと飛ばされそうな風が吹く。ここを登山するのは、よほど気象条件を考慮に入れなければならない。酒田から吹浦の記者のなかで、ひとりの老婆が登場する。婆には似合わぬ腕時計が止まったので、しきりにどうすべきいじっている。乗り合わせた爺さんが、どれどれと時計を手にとり、まだ動いていることを確認した。婆さんが、背中の包みから取り出したのは、畑で採れた真桑瓜である。汽車のなかでシンジョを煮たのを食べる人、そこへ瓜の香りがほのかに漂う。

この汽車のなかは、現世か、あの世か、それらが入り混じた世界。煮魚の生臭い匂い、真桑瓜の香りが辛うじて生きている証として示される。年老いてから書かれた森の小説は、つねに人の死が意識されている。

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