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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

吾亦紅

2019年09月19日 | 

この秋、吾亦紅を見るチャンスが2度あった。秋になると、この花を見たいと思うのだが、なかなか見るチャンスがなく、野草園まででかけてやっと見ることができる。先日、詩吟の先生の玄関に、吾亦紅が花瓶に挿してあった。聞くと、近所のお宅の吾亦紅が風で倒れたので、頂いたものだと言う。今朝、散歩の途中で、コスモスがきれいに咲いていたので、写真に撮っていると、偶然にもその脇で枝を束ねられた吾亦紅が咲いていた。肉眼では、桑の実のように見える花だが、カメラのピントを合わせると、集合した花の一つ一つがきれいに見える。

枝岐れして何れか是なるわれもかう 漱石

漱石の対象を見る眼は細やかだ。枝が直角に枝わかれしているので、どっち行くべきか、吾亦紅に聞いている。それにしても、秋の花もたくさんあるが、吾亦紅は渋い花である。それだけに、この花を愛する人には、秋のあわれを感じている人が多いのではないか。後水尾天皇の梅の宮は、早くに母を亡くし、若くして出家した。奈良の円照寺は梅の宮が住んだ寺である。秋ともなると、秋草が咲き乱れ、梅の宮はそれらをことのほかいつくしんだ。父上皇へは、秋になると、一束の吾亦紅を贈ったという。

吾亦紅すすきかるかや秋草のさびしききはみ君のにおくらむ 牧水

秋には、牧水のこんな歌も心に響く。あれほど、青く繁った樹々も、少しづつ色をつけ始めている。山は華やいだ紅葉の季節を迎えるが、すぐに葉を落とし、雪のなかの眠りについていく。

 

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カラス

2019年09月18日 | 日記

我が家は、10階建ての集合住宅だが、西にと南が開口部になっている。建物の西の空がカラスの飛行路になっているらしく、朝、塒からえさ場を目指して夥しいカラスの集団が南下していく。夕刻、日没の時間が迫ると、今度は塒を目指して北上する。よほどの荒天でもない限り、カラスの飛ぶ時間は太陽の光りとともに行動する。それだけに、カラスの朝起きは早い。烏は鳥のなかでも最も進化が進んだ種らしい。

カラスの身長はほぼ55㌢、体重は550㌘ほどだ。その内脳の重さは14㌘。ツバメの脳が2.6㌘だから、カラスは体重に比べて脳が大きい。因みに人間の脳は1300㌘ほどである。カラスの知能について、こんな話がある。三浦半島でカラスの巣が壊れて中のヒナを、保護するために横浜にある動物園まで運んだ。ヒナを気遣った親鳥が、約30㌔の道のりをついていったそうだ。そればかりでなく、人間の顔を覚えることもできるらしい。巣に意地悪をした人を覚えていて、野良仕事をするたびに急降下して襲ってくることがある、という話はよく聞く。

集団狩猟を行って、大きな動物を食べることもできる。カラスは、子鹿の目をつついて見え無くし、次に肛門から大腸を引っ張りだす。こうして出血多量で、鹿が死んだと見るや、多くのカラスが寄ってたかって食べてしまう。都心で、スピッツや鶏が襲われて殺される、というのもよくあるらしい。生ごみの集積所など、餌のある場所は、カラスの狙いどころとなる。人間の生活に合せて、カラスは行動を変えて、餌を巧みにとっている。そのためか、都市部でカラスの集団がおおきくなっている。

夕焼けの大きな山に迎へられ 及川  貞

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月の光

2019年09月17日 | 日記

中秋の名月は過ぎたが、ネット上ではしばらく名月の写真や話題で賑わった。李白に月光の名詩がある。この詩を吟じるのを得意とする吟士も数多い。

床前月光を看る

疑うらくはこれ地上の霜かと

頭を挙げて山月を望み

頭を低れて故郷を思う

月は離れた地にあっても同じく見える。古来、人は月を見て、今は遠くにある故郷や友人に思いをはせてきた。井伏鱒二にこの詩の名訳がある。

ネマノウチカラフト気ガツケバ

霜カトオモフイイ月アカリ

ノキバノ月ヲミルニツケ

ザイショノコトガ気ニカカル

年齢を多く重ねても、胸の内ふかく刻まれているのは、生まれたところの山河であり、子供のころの思い出である。

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敬老会

2019年09月15日 | 論語

今日、地区の自治会の敬老会である。もうこれに参加するようになってから、3回目である。まだ敬老会にいくような年ではないという意識がどこかにあって、何となく進んで行くということがなかった。最近では、妻が「お祝いのご馳走がたべられるから行こう」というようなって、抵抗感がなくいくようになった。昨日、岳風会の「詩吟まつり」があった。詩吟の仲間も高齢で、懇親会はあたかも敬老会のような雰囲気であった。スマホを持っている人も結構多い。写真を撮るにもスマホを使っている。ラインを使っている人がいたので、すぐに友達登録をし、撮った写真をその人のラインに送ると、朝になって操作方法を訪ねてくる。敬老の年になれば、デジタル機器に疎い人が多いことをあらためて知らされた。

「七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず」ご存知、論語で孔子が自分の一生を語った言葉だ。「吾十有五にして学に志す」から始まる聞きなれた言葉である。四十代の不惑、六十代の耳順など、誰もが知っている。改めて、七十代。言葉通りに読めば、自由自在に行動して、しかも人間としての規範を破らない至上境ということになる。ある評論家がこの言葉に付言している。もうこの年になれば、節度を失うような行動はもはや、生理にできなくなっているということではないか、と。早い話が、これ以上飲むと、ひどい目に会うから、これまでと盃を置くような話だ。それにしても、まだまだ、飲み過ぎて、タクシーの中で眠ってしまうような七十代も時々いる。もって瞑すべしというべきか。

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時の流れ

2019年09月14日 | 日記

昨日、中秋の名月であった。久しぶりに、雲のかからない丸い月を堪能した。カメラに収めようとしたが、私の技術では満月をくっきりと撮ることはできなかった。カメラまかせでは、夜の風景を撮るのはあまりにも難しい。時間は刻々と過ぎ、もはや寒い冬を胚胎している。桃が甘く熟れ、リンゴは次第に色づきはじめた。それにしても、過ぎ行く時の流れはあまりにも早い。

明日、また明日、そしてまた明日が

せわしない足どりで一日、また一日と、

時の記録の最後の一点まで這ってゆく。

そしてすべての昨日は、阿呆どもが、

死んで塵に帰る道のりを照らしてきたのだ。  シェークスピア『マクベス』5幕5場

時の流れは残酷だ。時に、マクベスのこのセリフを思い出させるように過ぎていく。この場面でマクベスが立てこもっていた城は敵の軍勢に包囲され、マクベスの立場は、いよいよ困難なものになっていた。そこへ、従僕が王妃の死を知らせてくる。マクベスはそれを聞いて思わず、「もっと後で死んでくれればよかったものを」というセリフを吐く。このセリフに続いて、明日、また明日、というセリフが続く。

マクベスの脳裏にはもはや個々人の死などというものは飛んでしまって、人間一般の避けられぬ運命へと思いが巡っている。辻邦夫に『時の果実』というエッセイがある。このなかで辻は、成熟の時間について述べている。果実が成熟するには、決められた時間が必要であって、人間にはそれを縮めることはできない。ものごとを時間に委ねる、こここそ辻が辿りついた地点であった。

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