2日から山小屋に2泊して立山の雄山と大汝山に登ってきた。朝の3時半に自宅を出発、富山県の室堂に着いたのは12時である。年に2回行っている遠征登山である。変わりやすい秋の天気に、スケジュールを自由に変更できないのがちょっと残念なところだ。天気予報を何度も見て、その変化に一喜一憂する。晴天にあたるのは、一種賭けのような側面がある。予報が好転しても、いざ現場に立って、予報通りとはいかないこともしばしばある。
立山駅から室堂までは、アルペンルートでケーブルカーとバスを乗り継いで行く。美女平までは急勾配をケーブカーで7分、一気に標高500mを上がる。バスはヘアピンのようなカーブを曲がりながら、1時間で室堂のターミナルに着く。平時であるのにも関わらず人が溢れている。中国の人たちの会話が絶えず聞こえている。途中、木の間から、勇壮な称名滝の景観も見ることができた。繁華な山上遊園地になってしまう、という深田久弥の懸念は、その通りである。深山の雰囲気は失われてしまった、というべきかも知れない。
しかし、反面この年になってバスルートにあたる森の中を、延々と歩くことは最早無理というものだろう。こうして、眼前に迫る立山の迫力に圧倒されながら、この山に登れるのは、このアルペンルートのおかげでもある。ここを愛する外国の人々が増え、観光立地の富山があることは、深田の予想を超えた少子高齢化の日本の一つの道でもあるのだ。過疎化が進む我が山形県の現状をみるにつけてても、手つかずの自然を残すことなど、空論のようにさえ思える。
ターミナルは到着した人でごった返している。3階の階段の踊り場で、立ったまま握り飯を食べる。上の展望台を見れば、雲が低く垂れこめている。ここから、今日の目的地は一ノ越山荘である。石畳の平坦で広い道が続いている。少しづつ高度を上げると、雨と強風になる。そんな中で、雷鳥を撮ろうとするカメラマンが、大きな望遠レンズのカメラを持ってシャッターチャンスを待っている。「皆さん雷鳥がいます。声を立てず静かにお願いします。さっき二羽見ました。」と言っていた。
上から下って来る人もいる。強風と雨で目も開けていられません、言いながら下って行った。「山荘泊まりですか。それなら安心ですね。」と声をかけてくれる。2時山荘に着く。濡れたレインウェアと靴を乾燥室で干し、着替えをする。次第に気温も下がり、薄手のジャンバーでは寒い。ストーブのある談話室でビールタイム。今年の山小屋泊まりの定番になった。夜には、強い風と雨が小屋を強く打っている。
充分の睡眠をとって2日目。外は相変わらず吹き荒れている。天候とのやり取りは、特に3000m級の高山では大切である。一歩間違えば、生命の危険を伴う事故になりかねない。出発を延ばして小屋で待機、その間、スマホの予報をにらめっこの状態である。9時30分外へ出る。雨は降っていない。心なし風がやわらいだように感じる。「リーダーがとりあえず、行けるところまで歩きましょう。」との声掛けで出発。ここから頂上までは、コースタイムで1時間。コースの途中で、次々と下って来る人に行き会う。「余りの強風で、雄山の先は断念しました。」という声が多い。
風よけになる岩陰もあり、急坂を1時間かけて雄山に着く。悪天候ではあるが、さすがは日本三霊山と言われることはある。後ろから次々と登ってくる人がいる。みたところ、若い世代が多い気がする。テントを背負った大学山岳部の学生たちが登っていく。聞けば、荷物は男女の差はなく、一様に30㌔ほど大きなリュックを背負っている。頂上の社務所で、500円を払ってお祓いを受ける。登山安全、家内安全をお祈りする。中には、100歳まで登れますように、という欲張りの人もいた。
風が凪いできたので、大汝まで行くことにする。出発時刻を遅らせたため、別山までの周遊は断念する。ここまでコースタイム20分とある。往復で小一時間、狭い尾根道を往復する。霧さえ出ていなければ、最高の眺望のはずだが、とりあえず立山を歩いている、という現実に満足する。大汝からは、往路を帰る。時おり、陽ざしが出始める。霧が風に流れて、一瞬山の景色が現れる。ずっと霧の中を歩いてきたので、その感動は増幅されている。「山崎カール」リーダーが指さすと、すぐに霧が景色を消していく。本日の予定、室堂まで下って、ターミナルの少し手前から予約してある雷鳥荘を目指す。
なぜか山荘は地獄谷の目と鼻の先である。誰かが言った。ここでは雷鳥も住めそうもないね。見れば風の道の草木は、噴煙の毒で枯れている。別山乗越から雷鳥沢を下り、その終点が雷鳥平だ。その付近のため山荘の名としたのか。3時過ぎに、山荘に着く。ここは温泉もついて、夜の食事も食べきれなほどの量だ。山登りには色々な楽しみがある。リーダーは夜の星空を見逃すまいと、目が覚めるたびに外を覗いている。
私は先人の書いた登山書を愛読している。この山行の前には当地生まれの英文学者で登山家・田部重治の『わが山旅五十年』を読んだ。地元に住んでいても、この山域に誰もが入れるというわけではない。ケーブルや自動車がついて現代ならいざ知らず、明治から大正に少年期を過ごした田部にとって、この山に登るのは、夢であり憧れであった。大学時代に山岳に親しんでいた小暮理太郎と親友になり、その影響で山登りへ入り込んで行った。
立山の手前に大日岳がある。田部はこの山も懐かしい山であった。奥大日岳に登った回想をその旅行記に書いている。「立山に登る人は奥大日岳に登ろうなどとは思うまい。付近の山の威容に圧倒されてそれはいかにも貧弱に見える。しかし、この山は私にとって魅力があったのは、初めて立山に登らんがため早月川をさかのばったとき、この山の持つ雪渓の雄大なのにうたれたからと、もうひとつの理由は、母の郷里がこの山の麓にあることだ。」田部のこの文章をかみしめながら、雪の残る季節のこのあたりの光景を想像しながら歩いた。
雷鳥荘の夜が明けた。外を見ると、ガスってはいるが、辺りの景観はくっきりと見えている。小屋を出るころになって雨になった。立山名残りの雨だ。弱いかすかな雨である。持参した傘をさして、みくりが池を見ながらターミナルへ向かう。池の水面に雨があたり、浄土山を映りこませた姿はいかにも美しい。2泊3日立山の旅は終わろうとしている。風に吹かれたとはいえ、このすばらしい景観を堪能できて、一行は十分に満足した。この日の参加者6名。男女3名づつ。もし許されるならば、あの大汝から真砂岳への稜線からの、全部の景観を見てみたい。