常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

花見山から十萬劫山へ

2022年04月13日 | 登山
花の名山と言えば、新潟の角田山、ツツジで名高い高柴山などが思い浮かぶが近年訪れた雄国沼のニッコウキスゲ、作並の鎌倉山のニリン草などが忘れられない。先日登った鶴岡の高館山もその一つに加わった。花見山は福島市渡利にある里山だが、農家人たちがここで花木栽培を始め、多くの人に花を見て欲しいという思いで始まった公園である。ここへ再訪したいと、山友会で企画したが、コロナの感染が広がって2年続けて閉鎖された。3年ぶりに、花見山への山行が実現した。
今週になって、気温が一気に3日続けての夏日になった。停滞気味であった桜前線は、一昨日に山形に達した。目指す花見山は、昨日28℃、本日29℃と真夏の陽ざしである。花には、こんな気温の上昇は好ましいものではない。8時に歩き始めたが、すでに気温は20℃超え。車を駐めた茶屋沼から、安達太良山の白い山並が見えている。

桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。

智恵子が言い、高村光太郎が詩に書いた「ほんとうの空」がそこにある。公園の頂上に近づくにつれて、全山が花の色に染まっている。桜、花モモ、菜の花、モクレン、サンシュユ。高度を上げると、花の色のコントラストが大きな景観となる。空の青さがいっそう引き立って見える。歩を止めて、カメラに移し、眼で見た景色を脳裏に焼きつける。この後、再度、ここに立てるという保証はない。

花見山公園展望台からの眺望。花の向うに新緑が始まっている。あと数週間で、緑の夏の山が姿を現す。公園の頂上を行くと、十萬劫山の入り口。ここまで1時間。一気に花が消え、雑木林の静かな芽吹きである。ウグイスの鳴き声が聞こえてくる。本日の参加者12名、内男性3名。

十萬劫山山頂に11時15分着。ここには風神、雷神が祀られている。里山であるが故に、旱魃の夏には、ここでも近隣の農民たちが雨乞いをしたと思われる。ここからの楽しみは、カタクリの群落を見る事だ。枯れた木の葉の間に、カタクリの花が見えてきた。惜しむらくは、少し盛りを過ぎて瑞々しさが失われたことだ。

片栗や自づとひらく空の青 加藤知世子

砂利とアスファルトの林道を歩くこと1時間。駐車場のある茶屋沼に12時30分に着く。桜に風が吹いて、空を白くする桜吹雪。風情のある景色だが、桜の花も数日のうちに姿を消すと思えば寂しくもある。
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桜満開

2022年04月12日 | 
一昨日開花したばかりの坂巻川の桜並木が、2日続きの25℃越えの陽気に一気に満開となった。見ごろはあと数日である。一番美しい桜をカメラに収めた。散り際の桜もいいが、待っていた桜をブログに残す。遠景からアップまで、ここを開けばいつでも故郷の春の桜に出会える。

咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり 高浜虚子





明日は、福島の花見山で文字通りの花見。花だよりは、人を動かす。コロナの感染はなお続いているが、一時の感染症への恐怖感は春の訪れとともに遠ざかった感がある。西行の歌に

年たけてまた越ゆべしと思ひきや
  命なりけり小夜の中山 西行

西行は69歳になって、東大寺再建のため遠い奥州への旅に出た。全行程241里の大行程だ。当時の人の寿命からすれば、その決意は想像を絶する。自分自身花を見るのも、あと何回という年齢に達している。足の動くうち、感染症への怖れを越えて、自然の美を見る旅を続ける。






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桜咲く

2022年04月10日 | 日記
近所の坂巻川の桜が咲いた。まだ数輪、咲き始めである。去年の記録を調べると一週間ほど遅い開花である。気温が上がり室内の暖房も必要がないほどだから、咲いた桜は満開に向かってまっしぐらだ。去年まで花の咲く場所を目指して、車を走らせたが、だんだん歩いて行ける近所の桜に心を寄せるようになった。

よきものは一つにて足る高々と
 老木の桜咲き照れる庭 窪田章一郎


桜の美しさはやはり青空のなか、朝日に照らされいるのが一番だ。時は春、花は桜。蕾だった桜の花が2,3輪、朝の穏やかな風が頬を撫でる、ヒヨドリがうれしそうに高鳴きして花のまわりを飛び回る。朝、至福の時間が過ぎていく。

さまざまな事おもひ出す桜哉 芭蕉

写真を撮りながら歩いていると、知り合いに出会った。「写真?」「ええ」と短い挨拶を交わす。最近、人との会話が短くなってきている。そういえば、別の人からはただ「こんにちは」と言っただけなのに、「車のタイヤを交換しました」と言ってくる。ウクライナでは悲惨な戦争が起きているのに、ここではコロナの流行以外には変わりのない日常だ。桜が咲いた、という些事が一番のニュースになっている。
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柳の木の下で

2022年04月09日 | 登山
人には成長を見守ってくれる木がある。自分の場合は、生家にあった栗の木だ。家の近くにあったので、夏になると、この木の下に茣蓙を敷いて、昼寝をするのが好きであった。本を持参してそこで読むのもお気に入りの時間であった。秋口に栗は実をつけ、朝一番で実を落す。それを拾って、囲炉裏の火で焼いて食べるのは何にもまさる美味であった。アンデルセンの童話に、『柳の木の下で』という、少年の悲しい恋物語がある。

デンマークのキェーエという小さな港町。海へ流れる小さな川に沿って、グースべりの藪のなかでかくれんぼをして遊ぶ少年と少女がいた。名はクヌートとヨハンネ。道の脇には並木のように植えられた柳の木があった。クヌートの家の庭にある柳の老木は、並木にくらべると立派でどっしりとした木だった。二人はその木の下で遊ぶのがことのほか好きであった。成長していく二人には、それぞれの運命が待ち構えている。母の死と父の再婚でキェーエを離れ、コペンハーゲンへ向かうヨハンネ。クヌートは手に職をつけるために親方を探し、職人の道へ進む。

ヨハンネはコペンハーゲンで音楽の道に進み、大きな公会堂で歌を披露する歌姫となる。職人として技術を身に着けたクヌートは、美しく成長したヨハンネを恋こがれ結婚を申し込む。しかし、ヨハンネは再開したときにはすでに婚約者ができていて、少年は恋に破れる。クヌートが決意するのは、あの柳に木が待っている故郷へ帰ることであった。冬がやってきたというのに、雪の降る山道を歩き通す。一人で歩き続けるクヌートを支えたのは、あの柳の木の精であった。歩き疲れ、雪のなかで眠り、夢を見る。故郷の柳の木の下で、ヨハンネと結婚する夢。クヌートはその夢のなかで死へと旅立って行く。

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山の花

2022年04月08日 | 登山
雪が消えて春になると先ず待たれるのは春の花。その代表格はヤマザクラであろう。人は冬の長い眠りから覚めて、陽の光に咲く花に自分の命を重ねて愛でる。本居宣長が桜をこよなく愛でたことは有名だ。「しき島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」の歌で知られる宣長だが、寛政2年71歳を迎えると、遺言を書き、自分の墓の後に山桜の木を植えるように家人に命じた。その年齢になってから、毎日桜の歌を詠んで枕もとに置き、まくら山と名付けた。その数は3百首にも及んでいる。

我心やすむまもなくつかれはて春はさくらの奴なりけり 宣長

鶴岡市の大山にある高館山に、山の花を見に行った。道端を花畑のように花盛りであったが、小さな枝のヤマザクラの、可憐な花が圧巻であった。これが、日本人のこころの故郷であることを、静かに主張している。

イチゲにはアヅマイチゲ、キクザキイチゲと変種があるが、葉が楕円形なのがアヅマイチゲだと、吉田悟先生が解説している。この山には淡紫色のものもあるが、素人目には断言できない。イチゲと呼ぶことで、細かな葉の特徴まで視ることを避けている。山形の近郊で花の写真を撮り続けた吉田先生の言葉を胸に刻みたい。「大自然のなかでは花は点景に過ぎない。山は無限に多様で常に感動に満ちている。個々の植物の名前だけにこだわって、この大きな感動のなかに没入することができない人がいるとすれば大変残念なことである」

山の花に魅せられるのは何故か。その植物が、山という環境に適応して、小さな生命の存在を主張しているからであろう。カタクリの花にはギフチョウが来る。色や香り、花が出す蜜。どれひとつとして、彼らが生きていくための不可欠の形である。それ故に尊く、可憐なのだ。ミスミ草は別名雪割草。この花に限ったことではないのだが、雪が融けた後に顔を出し花を咲かせる。花の色は紅、紫、白などだが、斜面全体に広がる群落はみごととしか言いようがない。好天のもとで頂上から海を眺め、登山道の足元に広がるお花畑。春の楽しみはこの花見に尽きる。

イワウチワの柔らかいピンクも捨てがたい。尾花沢の御堂森、西川町の石見堂などで大群落を見ているが、この春は、初めてここでお目にかかった。写真にはないがカタクリも大きな群落になって山中の斜面を彩っている。


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