何十年もそこにすわってタバコをふかしていた男はもういない。大きな過失のあとのつぐないであったように煙だけがただよっている・・・ように見える。たぶん ぼくだけに。なにがあったというのではないが
なにもなかったといえば ウソになる。何十冊かの日記を残したが
それを読みたがる人はいない。わりと新しい墓標が 風にゆれ
傾いて 傾きがひどくなってもうすぐ倒れてしまうのちがいない。
そういう生涯だったのだ。たとえば 一個の墓標のような。
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やがてこの人たちも老いるだろう。胸の奥がキリキリと痛む。わかっているようでわからない。わからないようでわかる。そういったあいまいな感覚がぼくを混乱させている。ぼくが乗っている小舟はもうすすまない。
いや 幽かにすすんでいる。一年かかってようやく数メートル。
そんなゆっくりした動きなので一日 二日ではあたりの眺めはまったくといっていいほど変化がない。彼も彼女も老いるだろう。現に老いてしまった人はさらに。
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わたしは「現代詩」なるものを書き、正岡子規、種田山頭火などの俳句を、一読者として読んでいる。寒さにめげて家や事務所にこもっているあいだに、活字モードのスイッチが本格的にONになり、ここにもどってきた。むろん、活字の世界の中でなぜ俳句かというと、マイミク葉流さんの刺激によるところが大きい。ちょっと淋しくはあるけれど、現代詩の話ができる人は、マイミクさんのうちにはひとりもいない。詩をお書きになる方はいないわけではないけれど、わたしがいう現代詩は「歴程」「荒地」「櫂」「ロシナンテ」「ドラムカン」といった詩誌から登場した戦後詩人と、彼らが表現してきた詩的言語の達成点を踏まえた上での「現代詩」という意味である。
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