二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

光集める人

2013年03月03日 | 俳句・短歌・詩集

マイミクの葉流さんは、昨年1年もmixiで大活躍し、そのアルバムはわたしはつねに注目するところである。
以前pita~☆さん時代に、彼女のアルバムを、けっこう大まじめに論評したこともある。
その後葉流さんとなって復活し、俳句では宇流瑠=雨流瑠というペンネームで、ツイッター俳句コミュでも大暴れ(?)しておられる(^_^)/~
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4880156

わたしもつい先日、ここに参加し、いまゆっくりとコミュの中身を拝見している途中。
なぜ参加することにしたかというと、

薄氷に光集める人になる  雨流瑠

この一句にとても感動したから・・・というのが、第一の理由。

わたしは「現代詩」なるものを書き、正岡子規、種田山頭火などの俳句を、一読者として読んでいる。寒さにめげて家や事務所にこもっているあいだに、活字モードのスイッチが本格的にONになり、ここにもどってきた。むろん、活字の世界の中でなぜ俳句かというと、マイミク葉流さんの刺激によるところが大きい。

ちょっと淋しくはあるけれど、現代詩の話ができる人は、マイミクさんのうちにはひとりもいない。
詩をお書きになる方はいないわけではないけれど、わたしがいう現代詩は「歴程」「荒地」「櫂」「ロシナンテ」「ドラムカン」といった詩誌から登場した戦後詩人と、彼らが表現してきた詩的言語の達成点を踏まえた上での「現代詩」という意味である。
歌詞のような詩も詩といっていいのだし、あまり差別するつもりはないのだけれど、草野心平さんや、田村隆一さん、谷川俊太郎さん、茨木のり子さん、石原吉郎さん、粕谷栄市さんを共に語れるお相手がいないのは物足りないとかんがえて、mixiでそういう友人をさがしてみた。しかし、いまのところ出会いがない。(武田章利さんという、暗喩だけでできたようなすごい詩の書き手がいらっしゃるが、残念ながらmixiにはlinkがはってあるだけ)。

俳句・短歌という短詩系は、ブログのような、あるいはmixiのような発表の場がもうけられているから、net時代にはおもしろい力を発揮しそう。
人によって温度差はあるとはいえ、PCや携帯のディスプレイで、長い詩や小説を読むのは、そう容易いことではないから、「短い」というのが、大きなメリットになりうる。

薄氷(うすらひ)に光集める人になる

直観で「うん、いい詩ですね」と感想をコメントしたあと、なぜこの作品を「いい」と判断したのかかんがえてみた。
「ああ、そうか。“光集める人”に感動したんだな。こんないい方があったぞ! これは写真家のことだろうし、葉流さんのことだ」
そういうことに、しばらくたってから気がついた。
「とすれば、これは葉流=雨流瑠さんのマニフェスト、つまりフォトグラファー宣言と読めてくる。

関心のある方は葉流さんとわたしのやりとりを見ていただくとして、ここではこれ以上は踏み込まないことにする。
ひとことだけ贅言をくわえれば「薄氷に」より「薄氷や」のほうが、舌にころがして、強い表現になるとかんがえてみた。
しかし、ここでその発言を撤回することにした。この句の場合「や」と置いたのでは、詠嘆的になりすぎる。「に」のさりげなさが、上品だし、葉流さんらしいという判断である(^-^)

むろんこの句にはほかの読みすじ(解釈)もありうるだろう、ことばや表現は多義的なものであるから。・・・と思ったら、葉流さんのレスを拝見するかぎり、さほど見当違いの感想ではなかったので、少しホッとした。

彼女の視線は、マクロからミクロまで、じつに柔軟多彩にのびたり、縮んだりする。
そこがアルバムのおもしろさにつながっている。さらに、彼女の写真は、俳句的世界にまで触手をのばしている。以前は竹内敏信さんらがやっておられる「俳句写真」には懐疑的だったけれど、わたしの意見は少しずつ変わりはじめている。

視覚に訴える俳句(発句)でまず思い出すのは蕪村である。
ものの本によると(まあ、なんという本だったか思い出せないということだが)、子規が称揚するまでの蕪村は、俳人としてより、画家として知られていた。
作例をあげてみよう。

菜の花や月は東に日は西に
畑(はた)うつやうごかぬ雲もなくなりぬ

愁(うれ)ひつつ岡にのぼれば花いばら
牡丹(ぼたん)散つてうちかさなりぬニ三片

五月雨(さみだれ)や大河を前に家二軒
不二(ふじ)ひとつうづみ残して若葉かな

四五人に月落ちかかる踊(をどり)かな
白露や茨(いばら)の刺(はり)にひとつづつ

これらの発句から喚起されるイメージのなんと鮮やかなことだろう!
風景・ネイチャー写真家の眼だし、スナップ・フォトグラファーの眼である。いや、画家のまなざしなのだけれど、「白露や茨(いばら)の刺(はり)にひとつづつ」によくあらわれているように、ここにはマクロ撮影の世界が、ことばによってとらえられているといっていいのだ。

現代俳句について無知蒙昧の徒といっても過言ではないから、わたしの考え方、感じ方は、半分くらいまちがっているかもしれない。
そういった危惧はあるけれど、葉流さんの一句はわたしをいろいろなおもいに誘う。

長くなってしまうので、いずれ稿をあらためて、また考えてみるとしよう(=_=)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホロヴィッツというピアニスト | トップ | 時への挨拶(ポエムNO.2-06) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

俳句・短歌・詩集」カテゴリの最新記事