あきれるばかり真率きわまるエッセイ。しかしまた、このいわば「志の低さ」に辟易する人も多いだろう。わたしは、どちらかといえば、この後者である。
表紙カバーに巻かれた<平凡社新書10周年>という帯には『才能がなくても書ける。それが私小説。その魅力を説き、「書きたい人」にすすめる、挑発的文学論!』と銘打ってある。また、扉のうらには、つぎのような紹介文が・・・。
『私小説は日本独特のダメな文学、ではない! 私小説は西洋にだってたくさんあるし、多くの有名作家が私小説からスタートしたのだ。しかも、文学的才能がなくても書け、誰もが一生のうち一冊は書きうる小説である。なぜ私小説は誤解され、蔑まれてきたのか?』
以前にも書いたことだが、大型書店へいくと、出版各社がこぞって「新書」を刊行し、新書といえば、岩波、講談社、中央公論と決まっていた時代のわたしのような読者を戸惑わせる。
これほど刊行点数がふえると、玉石混淆現象が起こるのはやむをえまい。
初刷りのみで、あっというまに品切れ、絶版続出は必至であろう。
第一章「私小説とは何か」、第二章「私小説作家の精神」あたりまではまだいい。
第三章「私小説批判について」あたりから、論調が低俗化し、俗にいう「文壇的ゴシップ」が幅をきかせてくる。第四章「現代の私小説批判」、第五章「私小説を書く覚悟」あたりになると、週刊誌の芸能記事すれすれまで論調が落ちていく。
著者は田山花袋の「蒲団」が好きで、この作品に並々ならぬ思い入れがある。したがって、「風俗小説論」で私小説批判=自然主義批判を展開し、戦後ながらく、かなりの影響力をもっていた中村光夫に対し、徹底的に食い下がっていく。それはすでに死んでいる中村の私生活批判にまで及んでいく執拗さで展開される。自然主義擁護派と見られ、「女房文学論」「島崎藤村論」で有名な平野謙さんには、文壇裏話、あるいは伝聞に基づくゴシップ的発想がままみられて、真相に蓋をしたままやたら小説家を文豪あつかいする一部の事大主義の徒に警告を発し、それが批評家としての持ち味でもあったし、わたしも20代では平野ファンのひとりであったこともある。
しかし、この著者の論調は、とくに『キャラクター小説の作り方』『サブカルチャー文学論』等で名をはせた大塚英志への論難の仕方を読むかぎり、私怨が交じっているとしかおもえないようなくもゆきとなっていく。
最後のあたりでは、ご本人の小谷野さんが、みずから私小説の書き手で、文芸誌などにさかんに売り込みをかけている当人であることが暴露されていく。
ここまでくると、「正体見たり、枯れ尾花」といった感想をもつ読者がかなり多いはず。
わたしはこの本の内容について、ある友人から紹介された。ある本で読んだのだが・・・、といわれ、本書の趣旨と同じような話を聞いている。それが「私小説のすすめ」、つまり本書だったと、立ち読みしながら気がついたしだいであった。
つまり「私小説論」として不徹底であるばかりか、週刊誌ネタのようなスキャンダルまでほじくり返して、開き直ろうとする姿勢があり、その姿勢をさして「志が低い」というのである。
『なぜ小説を書くのか、と言えば、書きたいからと言えばいいのだろうが、中村光夫もいっていたように、評論を書いて終わるのが寂しいというのもあるし、文学の研究だけでは寄生しているようなものだ、というのもある。作家になったほうが有名になれるとか、多くの人に読んでもらえる、というのもある。別にそういう「野心」を隠すことはない。』(本書第五章)
これ「ぶっちゃけ本音トーク」とでもいったらいいのか?
自分で書きたいとはまったく思わないが、わたしは私小説は嫌いではない。とはいえ、こういった「ホンネ」を聞きたい(読みたい)がために私小説を読むのではなく、嘉村礒多などを持ち上げる秋山駿さんなどには、賛同しがたいものを感じている。西洋型私小説とは一線を画する、非常に特異な日本型「私小説」の土壌は、まだこういう著者のようなファンをかかえて、その命脈をたもっている。そのことじたいは、おもしろいと思いつつ、最後まで読み通してしまった。
評価:★★★
表紙カバーに巻かれた<平凡社新書10周年>という帯には『才能がなくても書ける。それが私小説。その魅力を説き、「書きたい人」にすすめる、挑発的文学論!』と銘打ってある。また、扉のうらには、つぎのような紹介文が・・・。
『私小説は日本独特のダメな文学、ではない! 私小説は西洋にだってたくさんあるし、多くの有名作家が私小説からスタートしたのだ。しかも、文学的才能がなくても書け、誰もが一生のうち一冊は書きうる小説である。なぜ私小説は誤解され、蔑まれてきたのか?』
以前にも書いたことだが、大型書店へいくと、出版各社がこぞって「新書」を刊行し、新書といえば、岩波、講談社、中央公論と決まっていた時代のわたしのような読者を戸惑わせる。
これほど刊行点数がふえると、玉石混淆現象が起こるのはやむをえまい。
初刷りのみで、あっというまに品切れ、絶版続出は必至であろう。
第一章「私小説とは何か」、第二章「私小説作家の精神」あたりまではまだいい。
第三章「私小説批判について」あたりから、論調が低俗化し、俗にいう「文壇的ゴシップ」が幅をきかせてくる。第四章「現代の私小説批判」、第五章「私小説を書く覚悟」あたりになると、週刊誌の芸能記事すれすれまで論調が落ちていく。
著者は田山花袋の「蒲団」が好きで、この作品に並々ならぬ思い入れがある。したがって、「風俗小説論」で私小説批判=自然主義批判を展開し、戦後ながらく、かなりの影響力をもっていた中村光夫に対し、徹底的に食い下がっていく。それはすでに死んでいる中村の私生活批判にまで及んでいく執拗さで展開される。自然主義擁護派と見られ、「女房文学論」「島崎藤村論」で有名な平野謙さんには、文壇裏話、あるいは伝聞に基づくゴシップ的発想がままみられて、真相に蓋をしたままやたら小説家を文豪あつかいする一部の事大主義の徒に警告を発し、それが批評家としての持ち味でもあったし、わたしも20代では平野ファンのひとりであったこともある。
しかし、この著者の論調は、とくに『キャラクター小説の作り方』『サブカルチャー文学論』等で名をはせた大塚英志への論難の仕方を読むかぎり、私怨が交じっているとしかおもえないようなくもゆきとなっていく。
最後のあたりでは、ご本人の小谷野さんが、みずから私小説の書き手で、文芸誌などにさかんに売り込みをかけている当人であることが暴露されていく。
ここまでくると、「正体見たり、枯れ尾花」といった感想をもつ読者がかなり多いはず。
わたしはこの本の内容について、ある友人から紹介された。ある本で読んだのだが・・・、といわれ、本書の趣旨と同じような話を聞いている。それが「私小説のすすめ」、つまり本書だったと、立ち読みしながら気がついたしだいであった。
つまり「私小説論」として不徹底であるばかりか、週刊誌ネタのようなスキャンダルまでほじくり返して、開き直ろうとする姿勢があり、その姿勢をさして「志が低い」というのである。
『なぜ小説を書くのか、と言えば、書きたいからと言えばいいのだろうが、中村光夫もいっていたように、評論を書いて終わるのが寂しいというのもあるし、文学の研究だけでは寄生しているようなものだ、というのもある。作家になったほうが有名になれるとか、多くの人に読んでもらえる、というのもある。別にそういう「野心」を隠すことはない。』(本書第五章)
これ「ぶっちゃけ本音トーク」とでもいったらいいのか?
自分で書きたいとはまったく思わないが、わたしは私小説は嫌いではない。とはいえ、こういった「ホンネ」を聞きたい(読みたい)がために私小説を読むのではなく、嘉村礒多などを持ち上げる秋山駿さんなどには、賛同しがたいものを感じている。西洋型私小説とは一線を画する、非常に特異な日本型「私小説」の土壌は、まだこういう著者のようなファンをかかえて、その命脈をたもっている。そのことじたいは、おもしろいと思いつつ、最後まで読み通してしまった。
評価:★★★
いまどき、私小説擁護なんて誰もやらないので
インパクト狙いでやってみただけです。
まあ、もう買って読んでくれるだけで感謝。
ありがとう。
もしかして、著者ご本人ですか(@_@)
おもしろかったけど、
不満も残ったというレビューなんです。
心底くだらねぇー、と思ったら、
買わないし、買っても途中で投げ出す。
私小説を読み直してみようか・・・と思わせるインパクトは十分ありますよね。
車谷さんのような人もいますし。
アハハハ(^^;)