1
これまで「野火」に対しては、わたしはたいへん高い評価を与えてきた。
「野火」は、明治、大正、昭和を通じて、わが国最高の文学的達成のひとつである、と。
いや、わたしばかりでなく、本書を読む者の多くが、ここに見られる見事な小説的言語空間に、心をゆさぶられるに相違ない、と確信する。
それに関連して、あるエピソードを思い出す。
<私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の . . . 本文を読む
文学に関心がもどってきたのは、何年ぶりのことだろう。
いや、折にふれて、ぽつりぽつり読んではいたが、このように「読みたい」と思って、そんな気分がこころの奥底から湧きあがってきたのは、十数年ぶり、いや二十年ぶりといってもいいかも知れない。
漱石の「硝子戸の中」を読み返しながら、書評めいたものが書きたくなってきた。
そして、漱石についてあれこれと考えているうち、本屋やnetでいろいろな情報に眼をと . . . 本文を読む
およそ2年ぶりに中島敦(1909~1942年)の「李陵」を読み返したので、書評を書いておきたくなった。つつみ隠さずにいえば、読みながらわたしは、滂沱たる涙にかきくれ、幾度か本を擱いて、それを拭わねばならなかった。
新潮文庫「李陵・山月記」には「李陵」「山月記」「弟子」「名人伝」の4編が収録されていて、小さな活字の本ではあったが、長らくこれが手許にあった。しかし、数年前に武田泰淳の「司馬遷」を . . . 本文を読む
いやはや、血が滴るようなメガトン級の巨大なビフテキにかぶりついたみたいで、歯ごたえがありすぎ、読みこなしたという風にはとても思えない(^^;)
しかし、重く深刻に考えるばかりがいいわけではないだろう。ドストエフスキーは雑誌経営者でもあったから、ジャーナリストとしてなかなかの才腕を発揮したはず。「賭博者」や「罪と罰」を書いているころ「これはおもしろい小説だから、必ず売れる」とムキになって出版 . . . 本文を読む
明治、大正、昭和の文学に関心があるなら、伊藤整(1905~1969年)のこの本の存在を知らない人は少ないだろう。大学にもよるが、近代文学を専攻するような人にとって「必読の書」、あるいは基本文献としてあつかわれているのではないかと想像する。しばらく書店の棚から姿を消していたらしいが、数年前、岩波文庫に収められているのを眼にした。戦前では、正宗白鳥や小林秀雄の評論が尊重されていたが、折々の印象に基づ . . . 本文を読む
「夕ぐれの情景」
トワイライト・ブルー。たまにこんな光と色に出くわす。
夕ぐれの情景は、胸の奥に眠っていたものを揺らし、呼び覚ます。
感傷であったり、寂寥であったり、ニヒリズムであったり、
もっと具体的な「あの日の出来事」であったりする。
古来「逢魔が時」という語があって、
ひとはその光のなかで、魔物に出会う。
そして夜へ、時は過ぎゆく・・・。
「唐詩選」に趙仮(仮は正しくは偏が古、旁が暇の右半 . . . 本文を読む