木の枝に残された紅葉もいいけれど、散り敷いた落ち葉の美しさにも、眼を瞠る美しさがある。木の葉はどこからきたか?木の葉は、土の中、地面の下からやってくる。そうして、秋がきて、その使命を終えると、また地面に還っていく。大気と同じように、この地球の循環系の一つだったはず。このあいだ、近隣にある少林山達磨寺へいったとき、すれ違った庭師に「いやー、どこもかも、落ち葉が美しいですね」と挨拶がわりにいったら「お客さんにはそうですが、われわれにとってはゴミなんです。これだけの量を処分するのは、たいへんなことなんです」と愚痴っぽくいう。うん、それはわかる。街路樹の落葉高木が葉を落とすと、市から委託された業者のトラックがやってきて、清掃していく。
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行く春を近江の人と惜しみけるこれは芭蕉の一句。わたしは昨日、今日と、カメラを手にしてゆく秋を惜しんできた。遠くへ出かけていく必要なんて、まったくない。わたしの日常の中の秋。その美しさにこそ、価値のようなものがある。そんなことをおもいながら、30分ばかりクルマを走らせた。まあ、なんてきれいなんだろう。春は生殖の季節だから、装うのはわかる。しかし、まもなく冬がくるっていうのに、この秋の彩りは、ちょっと想像を絶しているところがある。だれのために、なんのために、こんなに美しく装うのだろう。新古今の昔から、日本人はこの「秋の風情」に気がついていた。それから、およそ千年が経過している。秋の美に心打たれるというのは、日本人の繊細な歴史意識、美意識のなせる技である。エスキモーや常夏のハワイの人に、秋の美しさを理解してもらうのは、そうなまやさしいことではない。
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このうち、シベリウスの演奏がとくにすばらしい。録音がモノラルであることなど、わたしがもっている音響機器程度ならば、まったく気にならないといってもいい(^_^)/~出だしからして、これまで経験したことのない世界が幕を開ける。第1楽章の、けぶるような薄明の抒情をたたえた旋律を、じつに見事に、構築性たっぷりに謳いあげている。この演奏はスタジオ録音盤で、どうやらライヴ録音された、もっと有名な演奏もあるらしいが、いまのところ、わたしはこれで満足している。ヴァイオリン協奏曲といえば、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキーがそれぞれ名曲を書いていて、これらを「4大ヴァイオリン協奏曲」と称している。ただ、音楽史のような本を参照すると、このほかにもすぐれたヴァイオリン・コンチェルトがいくつかピックアップされている。
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吉田秀和さんの思考は、直線的ではない。あえていえば、螺旋形。ある一面からだけ眺めると、一カ所に立ち止まっているようで、しだいにことばの深みへと、あるいは高みへと、読む者をつれていく。今年5月に新聞で訃報に接してからしばらくたって、わたしには吉田さんを読むきっかけとなった「レコードのモーツァルト」(中公文庫)を引張り出し、半分くらい読み返した。吉田さんの文章は司馬遼太郎さんの文章のように、ゆっくりした回転運動をしながら、徐々に対象の核心にせまっていく・・・そういう文体の持ち主であった。くり返し、あるところに立ち戻っていく。そして、そのたびに、思考は少しずつ深まりをみせて、読者を引き寄せてはなさない。モーツァルトやベートーヴェンやワーグナーは、若い吉田さんを捉えた至高の存在であり、他に比べるもののない根底的な価値の源泉だった。そこへくり返し、くり返し立ち戻ってゆく。そういう生涯であったのではないだろうか
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地図がないので夢の中でいつも迷っている。長いあいだうずくまっていると膝が痛くなる。そうして十年二十年が過ぎてゆく たぶん。時をはかる半透明の巨きな桝の表面にいろんな人びとの顔が映り込んでいる。ほらほら あれを見ろよ。赤い帽子をかぶった少女がこっちを見ながら愉しそうに笑っている。その隣で 髪のうすいおじさんが身を折り曲げて吐いている。まるで古時計の短針と長針のようにその二つのイメージは重なるように見えてすぐに離れてゆく。ゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆ夢
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さて、このあいだから、グスタフ・マーラーという高峰の裾をうろうろしていることは、過去の日記にしるした。今日はマーラーの交響曲4枚とベートーヴェン(フルトヴェングラー指揮の7番)、計5枚のディスクをクルマに積んでもってきた。現在はバーンスタイン&ベルリン・フィルがやった「伝説の名盤」が、会社のラジカセから流れているが、どうにも退屈で、耳を素通りしていくのはどうしたことか(^^;)マーラーという高峰の、二合目付近から上を目指す登攀ルートが、なかなかみつからない。本を読んでいると、なんだかわかったような気分になるが、彼の交響曲が、毛穴のような部分から体内に入ってきて、細胞の一つひとつに沁みわたっていく・・・というふうにはならない。《マーラーを聴くとは、もちろんこの甘美な、あるときは苦渋に満ちた、あるときはシニックな冷笑の仮面をつけた、あるときは幼年の遠い記憶につながるようなナイーヴでしかも夢のような生々しさをもった――音楽を聴くことは、それが私たちを誘ってゆく国に、私たちの身をまかせることを意味するにほかならないのはもちろんだが、この音楽をより全面的に、より全身的に受けとめるためには、聴き手である私たちは、ただ追随し、自分を忘れるだけでは十分ではないのである
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モノクロームで写真を撮る人は、よく知っている。写真とは、光と影のコントロール術だということを。いや、正確にいうと、光と影をコントロールなどできないから、そういった被写体をいかに発見し、フレーミングするか・・・ということになる。ビギナーにはビギナーのお悩み、ベテランにはベテランのお悩みがある。初冬を迎えたこの時季、街歩きをしていると、ほんとうに影が美しい。いまそこにある光とは、アベイラブルライトといわれる。要するに自然光なのだが、その見極めはなかなか一筋縄ではいかない。
日中であっても、光はとても低い位置からやってくる。晴天で空気が澄んでいると、ものの輪郭が、強烈なコントラストを形づくる。
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こんな場所で生まれこんな場所でその生涯を終える。ある日 親しかったはずの風景がずいぶん遠くに見える。いつのまにか落ち込んでしまった穴蔵のような場所から外の世界をのぞいているように。他人の街に紛れ込んでしまったわけじゃないのに。・・・これはなんという現象だろう?疲れがたまって いくら寝ても消え去ってくれない。ブルドッグをつれた散歩の女性が通る。木枯らしが枯れ葉を吹き寄せているのに焼き芋を焼こうという人はいない。なんだろう なにかが断ち切られてしまって帰るべきところには帰れない。ここ数年 そんな人びとばかり眼につく。昆虫も犬も猫も むろんすべての植物もごみは出さない。
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なにかの加減で、疲れがたまってしまうことがある。詩を書こうとしたけれど、ことばがつながらない。いくつかの単語が脳の奥にわだかまっている。追い払おうとするのだけれど、なかなか退散してくれない。買い物や用事をすませたあと、リビングに横になって、本を読みながらつぎつぎ買いためたCDを聴いた。聴いているうち眠くなって、うたた寝(=_=) 眼を覚ましてから、また音楽。10曲は聴いたろう。こんなにまとまって聴くのは久しぶり。トップの一枚は高崎市内、夕暮れ時の八百屋さんである。こんな店先をもっと撮ってみたいし、東南アジアのバザールへ出かけていって・・・・とおもうのだけれど、なかなかチャンスにめぐまれない。
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わたしが撮っている写真の中に「微笑する風景」とひそかに名づけているシリーズがある。なんだか飄々とした、ちょっと間が抜けたような風景といったらいいのだろうか?あまりフレーミングを“決め”すぎてはいけない。
水に浮いた落ち葉を、両方の手のひらでふわっとすくい取るようなショット・・・。う~ん、説明がとてもむずかしいなあ(^^;) はじめにピックアップした一枚は、今日寄り道の信号待ち(というより、工事渋滞)で撮影している。亀という文字がやけに目立っている。そして「伝えたいのは夢です」(てまでしか写ってないけれど)と、キャッチフレーズのような文字が躍っている。
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