「一匹の老いた狐がゆっくりと水を飲んでいる。
かつてもっていたベルギーの画家ブリューゲルの絵の右端で
あるいは ボードレールの詩の一行で
周辺に廃屋がやたらと目立つ沼のほとりで。
それを飲み終えたら 従容として死をうけいれるつもりなのだ。
伝説のヒナゲシや西風が好きな旅人に化けることはもうできず
やつは 自分に逃げ場がないことを知っている」
・・・と
そんな光景を ぼくは
憔悴しきった昨日の夢からたぐり寄せる。
その光景はつい最近の現実の経験であったようにとても鮮明なのだが
肝心なことに意味を欠いている。
. . . 本文を読む
一編の詩と一枚の写真は恒星とその惑星のような関係にある。
・・・という考えにとりつかれたことがあった。
つい数日前のこと
仕事のあいまによく冷えたおれんじジュースを飲みながら。
恒星が詩で惑星が写真であるのか
その逆であるのかはたぶんどうでもいい。
詩と写真のあいだには まだ発見されていない
あるいは永久に発見されることのない非現実的な物理的法則がある。
・・・ような気がする。
ぼくが作りだす詩と写真のあいだに
細長い稲妻型のすきまができてそこにいろんなものがひっかかり
ボロ雑巾のように折からの風にはためく。
小説家によって書きとめられたマルメラードフの末路であり
飼い主にすてられたあわれな犬の影であり
踏みつぶされほとんど原形をとどめぬクロヤマアリであり
それらのいずれでもないものが 風にはためく。
. . . 本文を読む
中沢新一さんは、現代のわが国で「思想家」という呼称が似合う、数少ない知性のお一人である。このあいだ、ラジオ番組として、震災直後放送された鼎談に、若干手をくわえて緊急出版された「大津波と原発」を読んでいて、えぐりの効いた内田樹さんの発言もおもしろかったけれど、中沢さんの発言には、それを上まわる「本気度」が感じられて、眼を瞠ったものである。
「中沢さん、これまでの業績のすべてを賭けて、なにかを引き受けようとしているな」と感じたわたしは、中沢さんのつぎの著書がどんなものになるか、愉しみにしていた。
すると、このあいだマイミク・ケンちゃんがmixi日記でつぎのようなサイト情報を紹介してくれた。
「日本の大転換」集英社新書 2011年8月17日発売
. . . 本文を読む
書くに値しないようなつまらないことなのだが
なぜかふと書いてみたくなったささいな出来事。
そこが・・・北陸だったか 山陰だったかもう覚えていない。
月夜の浜にべっこうの櫛がひとつ落ちていた。
ぼくは石とまちがえ その櫛をひろいあげた。
歯は半分近く欠け 傷だらけだが
それは疑いもなく だれかが長年使った
古いひとつの 弓形の背をもった櫛なのである。
R・Mとだけイニシャルが彫られている。
昔べっこうは長寿のしるしとして珍重された国があった。
事情があって持ち主の手をはなれ あるいはその遺族の手をはなれ
. . . 本文を読む
里山にヤマボウシの花が咲く季節
ぼくは長いあいだ暮らした女と別れて
ひとり暮らしにもどった。
西の空に紫雲がたなびき エゾハルゼミかヒグラシが鳴きしきる夕方。
不幸についてはいろいろと学んできた。
映画やテレビや小説の中で。
しかし 幸福について学んでこなかったため
ぼくはいまだに幸福がわからない。
幸福論というタイトルの本は掃いてすてるほど刊行されているが
不幸論というタイトルの本はこれまで読んだことがないし
見たこともない なぜだろう
. . . 本文を読む
一昨日、大型書店の詩のコーナーをうろうろしていたときのこと。
ある一冊の詩集とめぐり遇った。
上の写真に写っている、粕谷栄市詩集「遠い川」(思潮社刊 2800円+税)がそれである。
さっそく何編かを立ち読みし、たちまち引きずり込まれた。
粕谷さんの詩を、ずいぶん長らく読んでいなかったので、ドキドキするような強烈な印象であった。もしかしたら、須賀敦子の「トリエステの坂道」以来の“事件”かもしれないぞ。
大げさにいえば、三毛ネコ的にはそんな興奮なのである!(^^)!
とはいえ、わたしは粕谷さんの特別熱心なファンというわけではなかった。
しかし、第一詩集「世界の構造」(高見順賞受賞作)は、戦後の詩集のなかに屹立する、屈指の傑作であるというふうに評価してきたのである。
. . . 本文を読む
ある日ひとりの男が洗面所の鏡をのぞきこむ。
そして自分の顔が半分消えかかっていることに気づくのだ。
「おれには元々 ちゃんとした顔があったのに」
失われた顔のことを 鮮明には思い出せない不安が
彼の表情をさらにくもらせる。
ある日ひとりの女がホテルの姿見をのぞきこむ。
そして自分の体が半分欠けていることに気づくのだ。
「あたしには親からもらった体が 自慢の体があったのに」
どこへ落としたんだろうか?
フェンスにぶつかったとき くだけ散ったのか
・・・または獣に食いちぎられてしまったのか?
彼女は思い出すことができない。
. . . 本文を読む
このあいだBOOK OFFで金子みすゞの詩集(ハルキ文庫)を見かけ、ほかの本数冊とともに買ってきて、パラパラと拾い読みしたので、その感想を少しだけ書いておこう。
わたしは明らかに金子みすゞの詩を読みまちがえていた・・・ということが、わかったのである。
彼女の生涯を参照するのなら、こちらのサイトがいいだろう。
◆ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9E
わたしが彼女の作品をはじめて眼にとめたのは、90年代の終わりころであったろうか。
児童文学者矢崎節夫らによってうもれていたこの詩人が発見されてから、ずいぶん後のこと。「わたしと小鳥とすずと」や「大漁」など、いまではよく知られた作品とはじめて出会ったときは、たいして心を動かされるようなものではなかったと記憶している。
. . . 本文を読む
一人の老いた戦士が眠りにつく。
ニリンソウが群生している渓流のほとりで。
べつな一人は セイタカアワダチソウが繁る石ころだらけの斜面で。
こっちはまだ壮年だというのに。
その死を悼んで獣たちはあつまっているが
かれらの肉親の姿はそこにない。
遠くの空から銃声が聞こえる。
クヌギ林の奥の ずっと奥の
この世からはすいぶんとへだたった積乱雲のへりのあたり。
かつて存在したしめやかな夜の底で首のない黒い馬が闇の中を駈けていく。
戦死だろうと 病死だろうと 事故死だろうと
母なる地球はかれらの死を 他の死と区別しないだろう。
. . . 本文を読む
まずふとった議員のようなトノサマガエルがあらわれる。
夜行性のコウモリや 時に刺しつらぬかれたカラスがあらわれ
広大な円卓をはさんで踊っている。
ぼくには他人の悪夢が幽かながら見えている。
サバトの饗宴とでもいうような。
日本が「終わりのはじまり」に向かって
押しとどめることのできない坂道を下りはじめたいま
それは昼となく夜となく すべっていく。
すべっていく。
きみやぼくが少し騒いだくらいではどうにもならないんだってさ。
たとえ 一万人が力をあわせても。
せめてゆるやかな着地をめざし 巨大なエンジンのうなりに耳をすます。
やがてべつな動物が人間の繁栄にとって代わるだろう。
. . . 本文を読む