歌人若山牧水に、つぎのようなとても有名な歌がある。
白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
これを現代文で解釈すれば、こういう意味になる。
《白鳥(しらとりよ)お前は悲しくないのかい?
海の青さにも、空の青さにも、どちらにも染ることさえできないのに。
私は哀しくてたまらないよ・・。》
ところが牧水の原文はつぎのような文字遣いとなっているそうである。
しら鳥はか奈しからずや そらの青 海のあおにもそまずたヾよふ
古文でよく見かける「かなし」はいろいろなニュアンスがあって、とても現代人が普通に使う「悲しい」「哀しい」には要約はできない。
だから牧水は「か奈し」と表記したのだろう。古文書を読んだことがある人なら皆知っているけれど、われわれ現代人は、筆書きの「くずし字」(単なる草書体ではない)と、当て字に悩まされる(^^;) わたしは古文書を直接読もうというような熱意はとてももてない。
白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
しら鳥はか奈しからずや そらの青 海のあおにもそまずたヾよふ
大雑把な比較になってしまうけれど、牧水の表記のほうが、短歌としてははるかに微妙・繊細なニュアンスをすくいとっていて、詩としてすぐれているように感じるのはわたしだけかしら?
「や」という切れ字の効果もすばらしい。この一字にこめられた作者のため息が聞こえる。
むろん、「しら鳥」に作者は自分自身を投影している。しかし考えてみると、この場合、「しら鳥」は牧水個人の宿命をこえて、人間存在そのものの謂いだと・・・そんなふうに読み込んでいくことも可能だろう。
空のブルー。
海のブルー。
そして、ラピスラズリのような鉱物のブルー。自然界にはじつにさまざまなブルーが存在する。わたしはこの「ブルー」という色が大好き。
空の青さを見つめていると
私に帰るところがあるような気がする
こう書いたのは谷川俊太郎さん。人は「ブルー=あお」にいろいろな思いを託す。わたしもまた。
白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
これを現代文で解釈すれば、こういう意味になる。
《白鳥(しらとりよ)お前は悲しくないのかい?
海の青さにも、空の青さにも、どちらにも染ることさえできないのに。
私は哀しくてたまらないよ・・。》
ところが牧水の原文はつぎのような文字遣いとなっているそうである。
しら鳥はか奈しからずや そらの青 海のあおにもそまずたヾよふ
古文でよく見かける「かなし」はいろいろなニュアンスがあって、とても現代人が普通に使う「悲しい」「哀しい」には要約はできない。
だから牧水は「か奈し」と表記したのだろう。古文書を読んだことがある人なら皆知っているけれど、われわれ現代人は、筆書きの「くずし字」(単なる草書体ではない)と、当て字に悩まされる(^^;) わたしは古文書を直接読もうというような熱意はとてももてない。
白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
しら鳥はか奈しからずや そらの青 海のあおにもそまずたヾよふ
大雑把な比較になってしまうけれど、牧水の表記のほうが、短歌としてははるかに微妙・繊細なニュアンスをすくいとっていて、詩としてすぐれているように感じるのはわたしだけかしら?
「や」という切れ字の効果もすばらしい。この一字にこめられた作者のため息が聞こえる。
むろん、「しら鳥」に作者は自分自身を投影している。しかし考えてみると、この場合、「しら鳥」は牧水個人の宿命をこえて、人間存在そのものの謂いだと・・・そんなふうに読み込んでいくことも可能だろう。
空のブルー。
海のブルー。
そして、ラピスラズリのような鉱物のブルー。自然界にはじつにさまざまなブルーが存在する。わたしはこの「ブルー」という色が大好き。
空の青さを見つめていると
私に帰るところがあるような気がする
こう書いたのは谷川俊太郎さん。人は「ブルー=あお」にいろいろな思いを託す。わたしもまた。