日本の近・現代詩人の中で、金子光晴さん、西脇順三郎さん、草野心平さんは、長命をたもったばかりでなく、晩年にいたっても、旺盛な詩作意欲を失わなかった詩人として知られている。
「愛情69」が刊行されたとき、金子さん、73歳。
いつもわたしのへたな詩ばかりで辟易しておられるだろうから、69編の詩の中から、一編ご紹介させていただこう。
愛情55
はじめて抱きよせられて、女の存在がふはりと浮いて、
なにもかも、男のなかに崩れ込むあの瞬間。
五年、十年、三十年たっても、あの瞬間はいつも色あげしたやうで、
あとのであひの退屈なくり返しを、償ってまだあまりがある。
あの瞬間だけのために、男たちは、なんべんでも恋をする。
あの瞬間だけのために、わざわざこの世に生れ、めしを食い、生きてきたかのやうに。
男の舌が女の唇を割ったそのあとで、女のはうから、おづおづと、
男の口に舌をさし入れてくるあの瞬間のおもひのために。
金子光晴は貧困に負けなかった達意の放浪者であり、どん欲なエピキュリアンである。実生活のたしかな裏付けにささえられたエロチックな場面を巧みに取り込んだ詩をたくさん書いた。
谷川俊太郎さんが「なんでもおまんこ」(「夜のミッキーマウス」所収)という作品で物議をかもしたとおなじように、昭和43年(1968)、「愛情69」は、老いた詩人の大胆な男女の性愛が織り込まれていて、世の注目を浴びたのものであった。
いま読んでみると、たいしてあからさまなところはなく、老いと死のかたわらに身を据えながら、人間の「哀しみ」を見事に謳いきっていて、一筆描きの絵を眺めているような印象がある。枯れてはいるが、枯れきってはおらず、つつしみと、恥じらいの文化の国で、生身をひっさげて生きていくとは、こういうことか、と。上質なエロスの風景の中で向かい合う等身大の男と女。金子さんには、世界だとか、社会だとかいうことばはなじまない。あえていえば「娑婆」ということになろう。
さりげなく書かれてはいるけれど、当然ながら、ことばの練度は非常にたかく、「クセ球」には逃げずに直球勝負をしている。
わたしは金子さんが、テレビに出ていたのを、数回みたことがあった。
頭が薄くなっていて、補聴器をしていた。しかし、いまではもう絶滅してしまった「横町のご隠居」というような風貌と、芸達者な落語家みたいに、すっとぼけたその話しぶりがいまでも記憶に鮮やかである。昭和を代表する、大詩人であ~る。
※写真は「女たちへのエレジー」金子光晴(講談社学芸文庫)。
放浪時代の名作「南方詩集」のほか「愛情69」全編が収録されている。