(あしなが・・・足の長いのは憧れですが、これだけ長いと不便そう)
感情を表す言葉の一覧です。
すでにお気付きの方もいると思いますが、この表の中に、感情の正体が隠れているのです。
感情について、あらためて考えてみると、言葉の数だけ感情があると分かってきます。それは実は言葉に限りませんね。それこそ、言葉に表せないほど感情は私たちの心の中にあふれているのです。
この瞬間、私たちは呼吸をしながら、何らかの感情の中にいます。そしてそれはとどまることなく動き続けています。今日うれしくても、明日は悲しい。今不幸でも、次の瞬間には幸福を感じる。感情とはそういうものであって、永遠に不動の感情など存在しませんね。
ですから、どんな感情があるかと、数を上げてもきりがないわけです。しかし重要なことは数ではありません。無限にありそうな感情の量ですが、それらはすべて、表に示した区分に納めてしまうことが出来るのです。
「よい」、「わるい」、「ふつう」、「わからない」。
やってくる感情はすべて、この区分のどこかに入ります。というより、そのほかに考えようがありませんね。
これはどういうことを意味しているのでしょうか。実はこれが、感情の秘密を知る重要な手掛かりなのです。
つまり、感情とは私たちが無意識に下している評価なのです。無論意識的な評価も当然あります。
自分にとって、あるいは自分が守ろうとするものにとって、それは良いことなのか否か。正しいのか誤っているのか。自分が生きていることに対する評価を私たちは無意識に行っているのです。
それが感情となって現れてくるわけです。
「よい」という評価は、人はくつろがせ幸福感を与えます。逆に「わるい」という評価は、苦悩をもたらすのです。
しかし評価である以上、「よい」「わるい」と言えないものも存在します。例えば空腹が満たされて、その満足感も消えたころ、私たちはすっかり「食」についての意識を忘れてしまっていますよね。
学校から帰った子供に、「今日はどうだった?」と聞いたら、めんどくさそうに「ふつう。」とよく答えていたものですが、まさに何事もないのは普通なのです。子供にとったら、考えるのがめんどくさいという「ふつう。」なのでしょうが、しかしそれも子供自身の評価に違いはありません。
感情で、一番厄介なのは「わからない」という評価から生まれるものですね。ここから生まれる最悪のシナリオはカタストロフィでしょう。不安、心配は日常的ですが、この感情が世界に感染すればこれ以上の恐ろしいことはありませんね。
しかし、その正体は評価なのです。感情であるこの評価は、生理的なものから、無意識のものだけにとどまりません。恣意的なものから、善意、悪意を問わず、論理t的、盲信的、虚構など、一切の動機に関係なく、下した評価に左右されます。それが感情なのです。私たちはこの危ういシステムの上で生きているといわなければなりません。
感情とは、私たちが日々、否応なく下している評価なのです。私たちはそれから逃れることはできません。生きることがすなわち評価なのであり、その感じを感情と呼んでいるわけです。
ですから、しあわせという感情がいかに尊く、私たちの命を安全に導くための装置であるかに思いを至らせるのです。
その意味でいえば、「苦悩」とはまさに、私たちを正しい道に導くためのシグナルだと理解することが出来ます。苦痛が身体の異常を教えてくれる装置だとすれば、苦悩は心の異常を教えてくれる警鐘なのですね。
「苦悩」とは、どこかで私たち自身が、「わるい」という評価を下しているしるしです。苦しみは、どこかで「よい」という評価をしなさいと教えているのです。
それは状況を変えることで「よい」とすることもできるでしょうし、見方を変えることで「よい」という評価に変えることも出来ます。状況を変えるのは努力も気力もいりますが、見方を変えることは瞬間に出来ることです。ビリでゴールしたら、一番長く我慢した人としてたたえられるわけですね。
大切なことは、感情は自分がつくりだしているという事実です。つくりだしている以上、自分の力でコントロールできる可能性があるということなのです。
日々の感情と正しく向き合うということは、いのちをもっとも大切にする生き方だと思うのです。
次回は、いのちと感情について、もう少し深く考えてみたいと思います。
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