(12)2009.11.21(ツバキ)
年の瀬も迫っているのに、温かくていい天気だった。
真っ先に母を外に連れ出す。車椅子を押して外に出たらピンクの椿がきれいだった。
「ツバキやで、おばあちゃん」
「ほに、きれいやなあ」 ほっこりした母の笑いが帰ってくる。
裏のこずえから鳥の声が聞こえている。それが静けさを際立たせてくれる。
平和な一日だ。
「これもきれいやで」
私は根元に落ちている花塊を拾って母に見せた。
「そうや、今日はこの花描いてみようか。」
「そうやの」
私達は落下したツバキの花塊を大事に持ち帰り、小さなテーブルの上に置いた。
「こがなんでええんかの」
「ええで、ええで」
母のはじめての写生デッサンだった。ツバキの花も一緒に乗せて写真に収めた。
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写真の右上にあるピンボケピンクのかたまりが、園内で拾った椿の花、車椅子の母が大事そうに両手に包んでベッドに持ち帰ったものです。完全に開かないで丸まったままで枝から落ちていたのですが、ピンクにピントが合わないのか、ぼやけすぎですね。
ところでこの絵が、母が実物を見ながら描いた静物画のデッサン。最初で最後の写実デッサンなのです。
これを見てどう思われますか?
取るに足らない絵
そもそも絵(デッサン)と言えるようなものではないと思えませんか?
誰にでもできる子供の落書き。誰でもそう思いますよね。
私が言いたいのはそこなのです。
これが母のデッサン力
これを読んでくださっている誰ひとりとして、こんなデッサンはとても出来ないと思う人はいないでしょう。だって、線を引くだけなのですから。
そしてたいがいは、こんなものは絵ではないし、こんな絵では恥ずかしい。やっぱり自分は絵なんて描けないと思ってしまう原因なのかもしれません。
実際母の意識の中にもそんな思いがなかったわけではありません。
別の日のことですが、廊下から足音が近づいてくると、母の手が止まって、しきりに足音の方に耳を澄ませているのです。
足音が近づくと、はっきり身を固くしているのが分かります。
その姿は、草むらに身をひそめて、猛獣が通り過ぎるのを待っているウサギのようでした。
私が笑いながらその訳を訊いたら、
「こがな絵、人に見られたら恥ずかしい」
「恥ずかしもんか、誰にみられても立派なもんや」
「そうかの」
「そうやで、おばあちゃんだけにしか描けん絵やさかの」
そんな感じでよく母の気持ちを引き上げようとしたものでした。
そんな時、母がよき生徒であったのは、それ以上自分を疑わなかったこと。自分はダメと決めつけなかったことでした。
結局母は、そんなことは気にしないで、線を引き続けてくれました。
それが母を活き活きとさせてくれる土壌となったのです。
何が素晴らしいのか。
それをすこしかいてみます。
問題はデッサンの上手下手ではありません。重要なのは「自発性」なのです。
その意味では何もデッサンにこだわる必要もないのですが、ようするに自分が自分の思いで自分身体を使って自由に何かをするということなのですね。
何の干渉も受けないで自分を生きるというそのことが最も尊いし、デッサンは最も簡単にその自発性を発揮して、心と身体を使うことが出来るという訳なのです。
そしてその「自発性」に対して、一切の疑いを持たないことなのですね。
あなたが引いた一本の線は、うまい下手の基準で観るような俗にまみれたものではない。あなた自身の命が生み出したものなのです。
そのことを疑わないで受け入れると、
たった一本の線にだって、純粋な喜びを見つけられるのです。
ま、そんな大げさなことを言わなくても、
自分の絵はダメ、下手。という社会から植えつけられた思込を捨ててみましょう。そんな思い込みはあなたが本当に思っているのではない。思わされているのだと気付いて欲しいのです。
すべてのことにあてはまることなのですが
自分はダメという思いや考え方は、けっしてあなたそのものから生まれたものではない。それはすべて社会によってそう思わされているだけだ ということに気付くことは人生の悟りに匹敵します。
そのことに気付き、
生まれたままの自分の新鮮さに気付き、
それが今引いた自分の線だと気付いたとき、
あなたは自分と出逢う悟りを開いたことになるのですね。
この、デッサンというちっちゃな喜びは
決してそれだけにとどまりません。
必ずそれは、その人の人生を豊かにしてくれますし、至福に触れるチャンスを与えてくれるものだと思うのです。
こうして、生まれてくるものが、自分から生まれてきたものだと信じることが出来たら、あなたはもうそれだけで、絵描きの資格があります。
デッサンを心から楽しむことが出来るのです^ね^
雑談に来ました☺。
暑いですが、いろいろと出歩く機会も多そうな、お忙しそうなこの頃。
何卒ご自愛を。
さて。
最近忙しかったり珍しく体調崩したりで、私はすっかりお絵描きをサボっておりました。
そろそろ再開、と思っていたところ、こちらの記事。
私にとってはナイスなタイミングでした(笑)。
絵に限らず『私は〇〇が苦手』(と思い込んでいる)は、よくあります。
でも、大人になって評価と関係なくやってみたら面白かった、も、よくありますね🍀。
私の場合、お絵描きと運動、でしょうか?
運動神経がないだの下手だのどんくさいだの、高校生の頃にはとある先生に、キミは素直じゃないから出来ないだの(笑)いろいろ言われてすっかり運動系のアレコレ、イヤになったものですが。
評価とは関係なく、例えばウォーキングとか柔軟体操とか、自発的にやってみると単純に面白かったりします❤。
(気まぐれにやったりやめたり、ですが)
もちろん下手ですし、記録とかとも無縁です。
意味あるのか的に問い詰められたら(誰に?自分?)、ないでしょうねえ。
でも面白い。
お話書き程の執着や熱意、集中はないですけど(笑)、面白い。
最近それがわかってきて、幸せです。
楽器の演奏も、機会があれば再開したいですねえ。
でっかい音が出るのがちと、近所迷惑で悩ましい😅のですけどね。
デッサンとして描いた、そして上手いかどうかを超えた意味での、真に幸せを導ける絵。
「包み込むような、未開のツバキ」
自分を疑わず、社会や他人の評価に怯えず…思い込みという幻想を打ち破って…信じて描く事。
…実はジョイント展の話(21世紀美術の視点:2年目のコメント欄)…2日間ずっと悩んでいました。
「果たして芸術家としての覚悟(主にゲーマーとしての面に頼る)や一線を越えた鍛錬を積んでいない私に…協奏曲が奏でられるのか…不協和音に成りかねないのでは」と。
まだ押したらこけそうなほど足が竦んではいますが、…のしてんてん様の絵をありのままに見る事はできそうです。
(…実はジョイント展の事ばかり考えて、絵そのものを眼で見る事が出来ない恐ればかり考えていました…。それは本当にしたくなかった…。)
まずは絵を見て(音を聞いて)、音合わせの事はそれから考えようと。
※それは臆病ともいいますが、じりじりとは前へ。
…のしてんてん様のお母様のように、信じる気持ちを歩ませて、と。
改めて、心励みになる記事に感謝を!!
文面から分かります。
むっちゃんのお絵かきは、まったくもって典型的な思い込まされ病でしたね。
学生時代から意識がそちらに向いていたらデザイナーでもイラストレーターでも、お好みの職業を得たかもしれませんよ。
もちろん今からでも遅くはありませんし、そんなことは望まなくても、確実に人生が倍増するはず。
完全なる自発性を意識してください^ね^
ところで記事の文意を理解していただいてうれしいです。
肝心なところが伝わったと思えるコメントに感謝いたします。
大いに自分を楽しませて下さい。
自分勝手のように見えますが、それが案外子供にも伝わるものです^よ^
折師さんのこの思いと迷いについてですが、その根本にあるものは何だと思います^か^
気を悪くしないで聴いてほしいのですが、私にはこういうふうに思えます。
”曲にならない” ”合わせられない”
これは「ダメなこと」という強い意識です。
これは真摯な人ほど強い思い込みになると自分を顧みても理解できるのです。
真面目に生きようと思って、世の中を見れば自然にそう思ってしまいますが、しかしよく考えてみれば、それを「いいこと」と考えていけないという自然律はどこにもないのですね。
「合わせられない」人が大成している例はたくさんありますし^ね^
話が出たついでに言いますと、ジョイント展は、ネット上の合同作品の発進で、これまで20人近くの異ジャンルの方々と実施してきました。私のHPの案内板に「ジョイント展」がありますから、そこから、今までのものを見ていただくことが出来ます。
共同作品が出来るまでは、メールで互いに納得できるまで議論し合い、私のHPに秘密の作業場を作り試作を繰り返します。二人にしか分からない作業場で納得の域まで作品を創り直し、合意に達したところで公開します。
そんな流れで創り上げて来た共同制作ですが、基本メールのやりとりですので、心が決まったら、私のHPからメールをください。それが共同作業のスタートで^す^
出来れば、二人だけの共通の喜びを分かち合えたら、私はこの上ない幸せです。
星の子、のしてんてん系宇宙を行く。
どんなものが生まれるのか
私にも分かりません^が^