(ほったらかしの庭も、切り取ると素晴らしい風景)
5次元宇宙に生きる(神)にいただいた質問です。
{問} 五次元は興味深いのですが、この連載は、時々、物語だと書かれていますね。つまりこれは作り物の話を、さも本当らしく書いた、心の旅物語だと考えていいのですか。のしてんてんさんの立ち位置がよくわかりません (要約しています)
{答} とても難しい質問です。どう答えればいいのか迷いますね。・・・・・・・
まず、私が「物語」と書いた本当の理由は、宗教的な感覚で5次元の話をとらえてもらいたくない。というか、宗教的な考え方から距離を置きたいという気持ちからでした。 (というのは、私自身、宗教的発想はとても大切なものという思いを持っている反面、危険な側面を同時に感じてしまうからです。)
ところが、5次元宇宙を深く受容していくと、どうしても宗教的な世界に近づいて行きます。心の真理に向かう道筋(のしてんてん心の旅)には、どこかで必ず心の救いを教える宗教と交錯するのというのは当然のことですよね。
ですから、私は、必ず出会うであろう宗教的な考え方から距離を置くために、この5次元の話を「物語」と呼んだのです。
そして、質問者さんのお考え通り、「作り話をさも本当らしく書いた」というご指摘は、100%正しいです。(それが物語なのですからね。)
ではなぜそんなものを書くのかということなのですが、・・・・・・・(やっぱり真実を伝えたい)と思うからなのですよね。
先に宗教と距離をおきたいといいましたね。それをもっと煮詰めて言うと、「信じる」ということから離れるということなのです。
真実をさも本当らしく書いた作り話は、宗教の経典や教えも同じことです。親鸞の教えは、人は誰でも、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで、阿弥陀様に包まれて救われる。と言います。ここから先は、この話を信じなさいというわけなのです。信仰が真実に至る道なのですね。
私にはそこがどうしても本気になれないところなのです。(信仰に身をささげることのできる人を尊敬しますが、私にはそれができない。信仰落ちこぼれ者なのです。)
「信じる」と云うのは、真実を体験せずに、教えをそのまま受容することです。せっかく親鸞が用意したヘリコプターで頂上に運んでいただけるというのに、私は自分の足でその山を登りたい。
釈迦や親鸞が歩んだ道を、自分の力でどこまで登れるのかをこの身で体験したいと思うのです。
「信じる」道から離れ、「体験する」道を進む。これが五次元心の旅というわけですね。
というわけで、5次元の旅は物語でなければならないのです。そこに込めたメッセージは、この話を信じてはいけませんということなのです。
これは、あなたの心とともに肩を並べながら旅をする物語であって、様々なメッセージがあなたの心に投げかけられることを願いながら綴っているわけですね。
あなたの心に石を投げ込む。するとそこに波紋が生まれる。その波紋を体験していただきたいのです。
ですから、私(のしてんてん)の立ち位置と聞かれますと、適切な言葉は、弥次喜多珍道中の相手方ということになるでしょうか。
あるいは、単に私自身の心の旅実況中継と考えていただいてもいいかもしれません。
心の旅ということでいえば、私の絵画と文字は光と闇のように不可分の一だという思いが強いです。絵描きというより、物書きというより、あるいは信仰というより、心はいつもその上にあるのですから。
かっこよくまとめると、心の探求者ということです。(これも嘘ですからね)
質問者さんに納得いただけるかわかりませんが、今の私の精一杯の説明でした。
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