人生を体験させてくれてありがとう
世界を見せてくれてありがとう
命を感じさせてくれてありがとう
これはみな
自分に対してのありがとうだ
自分に感謝する
それが究極の幸せだ
(2010/11)
感謝の効用は計り知れません。
2010年の私の記事ながら、「自分に感謝する」とはどこか違和感を感じてしまいます。利己主義を増長するのではと。
しかし、あらためて今、感性と思考という2チャンネルの心の構図からそれを眺めてみますと、よく分かることがあります。
それは、感性と思考を統合させるためのヒントがあるということです。
感性と思考を統合させるということは、具体的にどういうことかと申しますと、思考が感性の存在に気付き、その主役の座を感性に譲るということです。
双方が譲り合って中間点で手を結ぶというようなものではありません。
なぜなら感性は、この今に存在するもの、スケール軸をひとつの全体として存在としてある実在から生まれるものであり、
その一方、思考はその実在のヒトのスケールという小さな部分に生まれる仮想空間と言ってもいいでしょう。
感性はゆるぎない実在を背景にしていますが、思考は常に揺れ動きます。
ですから、
感性と思考の統合というのは、思考を改革するという以外にはないわけですね。
で、どのように改革するのかと申しますと、この自我が思考を操っているという思い込みをすてて、感性の生まれている巨大な実在に思考をまかせるということです。
宗教では「あけわたし」という表現によく出会いますが、おそらく同じことを指しているのではないかと思われます。
さて、そう考えますと、私たちの究極の目標は、自我を超越して、五次元で観る実在に身をまかせること。ということになるのですが、
実のところ、それがうまくいかないのです。
思考の中にある自我は、そんな理屈で納得して、「はい分かりました」と簡単に明日から明け渡しますなんてことにはなりません。
そればかりか、己が消されるという思い込みから強い抵抗をするようになります。
正論は、自我を逆撫でして、実在を否定することだってあるのです。
その時、感謝は素晴らしい働きをしてくれるのです。
感謝とは、自我が、喜びと共に世界を受け入れることです。
つまり、自我と他我の確執に心を乱していた、まさにその自我が、他我を喜んで受け入れることなのですね。
その感謝を、感性を生み出している実在に向けることが出来たら、それこそ、それが究極の幸せとなるわけです。
己の感性に向かって、感謝する。
自分に感謝するというのは、
実在に消されてしまうという思い込みで反抗していた自我が、喜んでその実在を受け入れるということなのですね。
五次元の実在を感謝して受け入れることが出来たら、自我として働いていた思考から、苦悩が消えていくでしょう。
思考は少しずつ、自我を解き放ちます。
すると、自我はなくなるのではないと分かります。
自我は消えるのではなく、膨らむのです。
殻を破って生まれる雛のように
自我の殻を破って、実在として生きるものに進化する。
そこに感謝という思考のスイッチを見るのです。
ひとたび、実在=自我と気付いたら、
人は、
感性のチャンネルに周波数を合わせて、鳥の声をきき、風の音や、雲の流れに身をまかせる楽しみを最高のドラマとして観るようになります。
五月の新緑に踊る木漏れ日にさえ心ふるわせる感動を覚えます。
思考チャンネルで見るドラマの幸せは、一瞬で消えてなくなりますが、
感性のチャンネルで繰り広げられているドラマは、実在と共に永遠の幸せと解放があるのですね。
人間に与えられた思考。
そこに組み込まれた感謝こそ、
思考を実在につなぎ止める命綱だと、私には思えるのです。
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