(一重の白バラは、コガネムシの寝床)
浄光寺(浄土真宗)での奉賛会は、三回目になります今回で終了しました。
「浄土」、「阿弥陀」、「現世」とテーマを進めてまいりましたが、このあたりの心の旅は別の機会に譲るとして、実は今回の奉賛会で親鸞の教えに目からうろこが取れた思いをしたのです。
それは、当ブログ「5次元宇宙に生きる」をテーマにした、一連の心の旅で見えてきた真実をまっすぐに貫くような話だったのです。
奉賛会は寺の法要と同時開催で、会期中に導師の講話もあったのですが、その時こんな話をされました。
回向(えこう)を説明して、阿弥陀様の善行が南無阿弥陀仏という言葉になってあなたに訪れるという内容でした。
南無阿弥陀仏と唱える。するとその言葉、その声が、阿弥陀様そのものだというのです。私はその時背中に電撃が走ったような気がしました。
あなたの声明で声となった阿弥陀様が、あなたを救って下さる。
この時私の心の中で、阿弥陀様と5次元宇宙が完全にイコールで結ばれた気がしたのです。
南無阿弥陀仏という声明は、信じるという次元から、体験する次元に移るための準備がしっかりなされていたということです。
この声が阿弥陀様なら、この呼吸も、この鼓動も、私だと思い込んでいるこの命の一切が阿弥陀様でないわけはありませんね。
呼吸をしますね。それは宇宙との交流であり、阿弥陀の身の内なわけです。
そして死の瞬間を息を引き取ると言いますが、本当に人は死ぬとき、息を吸い込んで、吐く力が果てたまま終わるのだと聞きました。
宇宙の気を受け取り、己の気を戻す。これが呼吸だと考えれば、吐く息は宇宙に対して示す己の自己主張なわけですね。
人はだから、宇宙(阿弥陀)を受け取ったまま、己が消えて宇宙に帰る。そんな死に向かう心の風景が見えてくるのです。
だとすれば、吐く息を宇宙に返すその時に、己ではなく宇宙そのものを意識して気を返す呼吸ができれば、私たちは生きながら阿弥陀を体験することが出来るのではないかと思えるのです。
この3年のお付き合いで、やっと自分なりに親鸞を理解したと言えるようになりました。
それはつまり、その教えの中に、信仰を超えて自らが阿弥陀になりきる道を用意している。その偉大さに気付いたからです。
5次元の概念は、すでに今まで、このように真摯な宗教の中にさりげなくあったのだと思うのです。
とある瞬間から、するり、とすり抜けていくような感じがして、わからなくなります。今回のお話もそうです。
そこが今の私の限界、なのかもしれません。何度か読み返し、多分、そうムツカシイことをおっしゃているのではないだろう…という予想はできるのですが。
今回のコメントは、今日の記事の中でお返事させてもらいますね。
つたない文書を、深く読んでいただいて感謝いたします。
そして真摯な質問がどれだけありがたいことか、今日の記事で少しでも伝わればいいのですが。