(どうしたわけか、庭にラベンダーがよく育つ。一年中花があって、刈り取らないとはびこるのが過ぎたる幸いです)
朝、浜まで歩きながら考えた。
信じる事(信仰)と、体験(実践)の間にはどれほどの距離があるのだろうか、と。
人はまず、いのちを体現してこの世に生まれます。何かを信じなくてはよりどころを失うというようなことはどこにもありませんね。赤ん坊はあるがままにその命を生きているのです。
その命を支えているのは母ですね。母は赤ん坊のよりどころを無償の愛で 与え育むわけです。
赤ちゃんが、あるがままの姿で生きられるのは、母の愛があるからだと言えますね。
子供は成長していきます。それはいずれ庇護の外に出て、自ら生きることを意味します。
その時、子供はあるがままの姿では生きられないことに気付きはじめます。叱られたり、褒められたりして、自分の場所を学習していくわけですね。そこに信じる行為が目覚めるのです。
どうしたら自分の居場所で、安心していられるのか。その意識は、あるがままに生きる世界とは全く違った、知性の目覚めを呼びおこします。
信仰よりも、もっと原始的な知性のよりどころとして、信じる事が子供の心に芽生えます。知性が見せてくれる世界、それを成り立たせているものは、まさに知性に対する疑いを知らぬ信仰なのです。子供にとって、認識することは疑いようもない世界と見えるでしょう。
しかし大人に成長する頃には、この認識世界がすべてでないことに気付きます。それを教えてくれるのが、思い通りにいかない人生の苦悩であることは言うまでもありませんね。
救いを求めて、人はようやく宗教に出合います。認識に対する無条件の信仰が、神という存在に対する信仰に変化するのです。
苦悩を生み出す認識の世界から解放してくれる神。それは知性を超えた神域の存在に対する信仰ですね。
その神域に自ら立っているわけではない。信仰とは、疑いようもなく信じるその世界を自分のよりどころとして生きることだということは分かりますよね。人は信じることで世界を納得するのです。
こうして見てくると、面白いことがわかります。
つまり人間は、生まれたままの姿で人生のスタート地点に立ちながら、その立ち位置を忘れてしまって、いつの間にか、自分にないものの存在を信じることで、自分の居場所をつくりあげてきた。その信仰は、信じる対象を変遷させながらも、一貫した人間の習性と言えるかもしれません。知性であれ、理論であれ、あるいは神であれ、それは信仰という人間性の現われなのですね。
そうすると、私たちが成長して、最後に行き着く所はどこなのかということがほのかに見えてきます。
つまり、見失ったままになっている自分の姿に、再び気付くということですね。
あるがままの自分は、今もここにいます。知性がほったらかしにしてきた生まれたままのこのいのちに、知性そのものが気付くということ。
それが人間としての、最後の成長する姿と言っていいでしょう。
それは信仰から真実に至る最後の行程なのです。
人間が一生かかっても、得なければならない答が、生まれたままのこの姿の中にすべて含まれていいるということです。
信じると、体験との間には、これだけの道程が用意されているということですね。
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