(ナンテンの森)
内なる自然を受容する。それが実現出来れば、心は穏やかに晴れて、充足感が訪れる。それを私たちは何度も体験していますね。
自分に対して何の疑問も心配事もなく、たとえば湯船に身を浮かべている姿を想像してみてください。
心は解放されて、ほとんど自然に身体を任せて揺れているのです。
それは産湯に浮かぶ嬰児と同じ、リセットされたくつろぎだと言えるのではないでしょうか。
そこにはプラス思考も、マイナス思考も存在しませんね。ただ「ある」という感覚だけで充足している世界なのです。
内なる自然を受容するということは、まさにそのような感覚を自分の中にみいだすことなのです。
難しいのはそれを、知性を働かせながらそれを実現することなのですね。そこでは知性を働かせて知性を消さなければならないというような、蛇が自分の尻尾を呑込んでいくような問題が起こってくるわけです。
なぜなら、リラックッスした、湯船の時間が終わると、私たちの思考が再び動きはじめます。知性が現実を色付け始めるのです。
そうなると、私たちは抵抗なく、知性の見せてくれる世界を現実として受け入れ、心に重荷を背負わせることになりますね。その中で、半分の人はしあわせを手に入れますが、残りの半分は苦悩を味わいます。誰かがしあわせになれば、だれかが不幸になる。それが知性のつくりだす虚構の世界ですが、当然のように私たちは競争を強いられることになるわけです。
私はこの虚構の世界を悪いものとは思いません。むしろ人間的な愛すべき能力であり、社会はそうして発展してきたのですから。
ただ、苦悩はその能力に傷つき、疲れ果てたものの上に現われます。人間性のマイナス面に半数の人々が苦悩を舐めるのです。そしてその苦悩は知性がつくるこの現実世界にしがみついていてはなくならないわけですね。
疲れたら休めばいい。その場所を私たちは知っているのです。いっとき、知性から解放されて真実の中で身を休める。生れたままの姿を受け入れて、自分の中にある自然を受容する。そこで苦悩は消えていきます。
さあ、私たちはいよいよ、堂々めぐりをすることになりました。つかんだと思った内なる自然は、つかんだと喜ぶ知性が働いて、再び虚構の人間性の中に引き戻されます。
何度も何度も、おなじことが繰り返されます。この循環から抜け出すことは出来るのでしょうか。
知性を働かせながら(人間性を喜びながら)、知性を消す(真実の中に入る)。それはとても難しいことですね。
しかし方法がないわけではありません。
次回はそのことを描いてみたいと思います。
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