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静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

新 心の方程式 物質から心へ (4)

2021-07-02 | 5次元宇宙に生きる(心)

自己意識の領域:

上図の緑の空間のこと。この空間が素粒子を人型につなぎ止めているエネルギーを持っている。

これを相関性と呼ぶ

 

 

オナルド・ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図に五次元宇宙モデルの原型を重ねたもの。

 

 

心は物質ではない。ゆえに心は空間に属する。

ダ・ヴィンチの人体図はそんな思いに面白いヒントを与えてくれているのである。人体が手を広げて内接している正方形と円が描かれているが、正方形は物質を表し、円は精神的な存在=空間を表してしているのである。それを象徴するように、正方形の中心には性器があり、円の中心にはへそが描かれているのである。

性器⇒物質⇒正方形。

ヘソ⇒命の育み⇒円。

ダ・ヴィンチが意識したか否かにかかわらずこの関係は実に面白い。これを五次元宇宙モデルの五芒星を重ねると

性器⇒物質⇒正方形⇒五芒星の頭の部位。

ヘソ⇒命の育み⇒円⇒五芒星の中心点。

ということになる。この関係は暗示のままとどめておこう。

 

心とは何か。

心は物質ではないとすると、ダ・ヴィンチの円にその答えがある。その円の中に丸ごと五次元宇宙モデルが内接している。

そしてこの五次元宇宙モデルは、素粒子の集合で出来た身体である。すなわち物質に属する私達の身体がダ・ヴィンチの円の中にあるのだ。

空間を表す円の中に、素粒子の身体を表す宇宙モデルがある。この矛盾のように見える関係の中に、心とは何かという問いに対する具体的なイメージが見えるのである。

 

その思考の過程をたどってみると、

①心とは物質ではない。つまり心は素粒子ではないという言うことである。

②すると残るのは、素粒子同士の間にある空間だということになるのである。

③ではその空間にあるものとは何か。それは素粒子同士をつなぎ留めている力、すなわちエネルギーである。

④私はその力を相関性と呼ぶ。宇宙に素粒子が散乱しないで引き合い集団を造るエネルギーを相関性と呼ぶのだ。

⑤そう考えると宇宙空間の中に、相関性で結ばれるエネルギーと、相関性を持たないエネルギーがあることになり、相関性の境界線こそ心の姿だと考えられる。

⑥つまり心とは相関性で結ばれたエネルギー体だということになる。

⑦相関性で結ばれたエネルギーを体感すると自分自身になる。それは身体から生まれる感覚と感性、および体験と知識の総体なのである。

⑧よって、心とは身体から生まれる感覚と感性、および体験と知識の総体であると言えるのである。

⑨心の中に生まれる怒哀楽は感性に属し、様々な社会認識は知識に属する。その中にいる自分の位置を見つめ続けるのが心なのである。

 

以上が、身体から発する心の概念である。これを骨格だけにすると次のようになるだろう。

1、素粒子という物質が存在する。

2、素粒子間に相関性が生まれ、つながって人となる。

3、相関性は閉じたエネルギーの塊りであり、それが心となる。

 

ところで、心の根幹にあるものを考えてみれば認識に行き着く。

なぜならそれを心の中に出現させ、世界を想像させるものと言えば認識以外にはないからである。

たとえ実在しないものであっても、想像によって生み出されたものは意識される。つまりそれもまた認識なのだ。

得体の知れない不安や恐れもまた、認識であり、予感や、予兆といった心理的な要素、感情にたるまで、私たちのなかに生まれる一切のものは認識の対象となるのである。

 

当然のことだが、認識出来ないものは、たとえそこに何かが存在していても私たちの心には現れてこない。つまり「ない」のである。思い違いをしていけないのは「無い」というのも認識だということである。ここでいう「ない」というのは、意識の中に全くのぼってこない予感も想像もできないもののことを言うのである。

これを図示すると次のようになる。

認識は、三次元空間に時間とスケールの概念で思い描ける最大の世界観をつくる。

上の図の丸の範囲が私達の認識できる最大の世界であり、これを「存在の有」と呼ぶなら、

その丸の外にある、夢にも思わないものの世界を「存在の無」と呼ぶことが出来る。

心と呼ぶのは、まさにこの円の中の領域のことなのである。

 

ところで認識はコンピューターのように機械的に知るということではない。認識、すなわち心は電子頭脳ではないのである。

その違いは心の根幹である相関性に由来する。つまり認識は知るということではなく、エネルギーの関係性を感受することなのだ。相関性を具体的に言い換えれば喜怒哀楽である。

つまり認識とは知ることではなく、喜怒哀楽に色付けられる感情を生み出すことなのである。

 

認識とはこの相関性を意識することなのである。どういうことか。説明してみよう、

例えば「赤い花」を認識した場合、この認識には必然的に「自分」と「赤い花」の関係が意識されているのである。

その関係を大別すると次の通りである

①「良い」相関性

②「悪い」相関性

③「普通」の相関性

④「分からない」相関性

認識とはこのように「自分」と「赤い花」の関係を意識することなのである。コンピューターと違う点がここにあるのである。

 

花を見た瞬間、それが

①「良い」相関性なら喜ぶだろう。うつくしいとか、プレゼントとか、自分と結ばれる良い関係が花と関連付けて意識されるのである。

②「わるい」相関性であったなら、忌み嫌い、避けようとするだろう。呪いの花というのは、花に呪いとの関係を認識しているのだ。

③「普通」という相関性は、見慣れた花であったり、無関心無感動なものとして意識にのぼるのである。けだるい日常=「普通」と判断した認識であろう。

④「分からない」という相関性なら、感情の保留、不安や探求心がその認識に色付けられている。

このように、認識は相関性のエネルギーを意識に照らし出し、色分けして理解しているのである。その意識が心を作りだしていると考えられる。十人十色。世の中に同じ心が二つと存在しないのはここに理由があるのだ。

 

したがってこんなことが考えられる。

誰かに服を破られたという事実があったとしよう。

①これで新しいものを買ってもらえるという関係を見出せば、(嬉しくなる。:良い)

②大切なものを破られたという関係を見たら、(怒りが湧き上がる。:悪い)

③ボロボロの服だったという関係を見出せば、(どうでもいい。:普通) 

④何の関係も見いだせないと、(私はどうしたらいいの。:分からない)

というように、同じ出来事に対する認識の違いは、人の数だけ存在することになるのである。

 

では、この認識はどのようにして生まれるのか、もう少し立ち入って考えてみよう。

上の図は「自分」の外にあるものへの認識と、内にあるものへの認識の形を現したものである。

自分の外にあるものを照らし出すのはであるが、内なるものを照らし出すのは意識であるという考え方を示している。

 

心は相関性に基づく。それは心が、二つ以上のものの関係から成り立っていることを意味している。その時、は自分とその他との違いを意識させてくれる。他方意識が照らし出すものは、体内に起こるすべての感覚となる。つまり意識に照らし出される世界は、自己以外にはあり得ないのだ。(心の探求を進めるにあたってこのこてとは重要である。)

光と意識の違いは何なのか、それはスケールに他ならない。どちらも空間に存在するエネルギーなのだが、違うのはエネルギーの波動。そのスケールなのである。

すなわち光と意識は次のようなスケールの関係があると思われるのである。

 

光の波長:意識の波長=地球:素粒子

 

しかし光と意識の違いはスケールだけだと言っても、心にとってはその違いは大きい。光は外の世界を観る。対して意識は内の世界を観るのである。

その意味で私達はすでにスケールの世界に生きているのである。

 

この図で示した意識とは、言うまでもなく、自分の体内を照らし出す意識、つまり自己意識に他ならない。すでに書いたことだが、この自己意識とは素粒子レベルで浮かぶ人体。その人体を組み立てている相関性というエネルギーに他ならない。この身体を分裂させず一つにまとめているエネルギーの体感を、意識と、とらえているのである。

この自己意識は生きている限り揺れ動いている。先に紹介した呼吸や、眠りのサイクルばかりでなく、快感や痛みなど、様々な感覚を体感として受け止めているのであるが、この体感こそ自己意識の正体なのだ。

認識はこの体感を自分との関係で理解することである。その体感を「快・不快」に色分けして知るのである。

私は認識するこの体感を、意識に照らし出された身体的「快・不快」と呼んでいる。つまり自己意識とは私たちの「快・不快」の体感として現れてくるものなのである。

 

素粒子レベルで人間の成り立ちを考えると、まず最初の素粒子が存在する。一個の素粒子を人間をつくる一滴だとするなら、人間は最初の一滴が次の一滴と結び合い相関性を結ぶ。その結合した力が次々と仲間を引き寄せ、複雑で大きな相関性を結び人型の素粒子銀河をつくり上げるのである。この相関性が自己意識の正体なのだが、人間として完成する最後の一滴が積み上がると相関性の不安定な揺らぎは最高になるだろう。

この相関性は、肉体をつくる段階では単に身体的「快・不快」という揺らぎだけで終わっていたのに、人間の最後の一滴はそれをはるかに超えて頭脳を造り上げる。頭脳を造り上げた相関性は、肉体から離れ、エネルギーそのものを加工するまでに進化したのである。それが認識なのである。

象徴的に言えば、人間は最後の一滴で認識を造り上げたのである。その進化とは何だったのか。

それは神からの独立だったのである。

つまり神に代わって己が全てを判断しなければならなくなった。それが認識「良い・わるい・普通・分からない」なのである。

 

最初の一滴から始まった人間の歴史は、最後の一滴で宇宙から孤立したのである。そしてもっとも大きな不安定(自由)を手に入れた。

これが進化なら、人間はこの孤独と自由を謳歌しながら、そこに最大の喜びを見つけなくてはならないのである。

 

眠い、速い、暗い、眩しい、重い、暑い・・・・

私たちの日常に起こるすべての感覚は、自己意識が照らし出す身体的「快・不快」を体感として認識する事である。

 

この内面に起こるドラマは、自己意識という閉ざされた空間の中で認識される、まさに個人的体験なのである。

このシルエットを自分だと思えば、内面が見え、自己意識の広がりを自分の人生として認識する。

その一方シルエットを他人と思えば、私たちはその外面を光に照らして他者を認識するしかない。その内面はただ推し量るだけである。

 

認識とはこのことからも分かるように、自己意識の中から出ることはない。これを宇宙モデルで示すと、以下の通り色のついた空間なのである。それ以外の空間は自己意識の及ばない空間と言えるのである。

 

次回は意識が認識を生み出し成長していく風景を見ることにしたい。

 


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