2012年個展 Waa Concept(キャンバス・サッカーボール・鉛筆)
表題の展示は宇宙を表現した組作品であるが、これはある偶然によって生まれた。
子供が小学生時代にやっていたサッカーボールが、ちょっとしたところから出てきたのだ。
それは球体のキャンバスが欲しいと思った矢先のことだった。私は何のためらいもなく、ボールに下地を施し、サッカーボールに絵を描き、画面に取り込んだ。それがこんな作品になったのである。
作品とは直接関係ないのだが、宇宙のイメージを手にいれるためにサッカーボールを持ち出したかったのである。
なぜならサッカーボールは見事な宇宙モデルなのである。それは宇宙を思い描くために役立つ。心の成り立ちを考える前にまずそのことに触れてみたい。
それはこの五角形と六角形の組み合わせにある。球体は完全な形であり、宇宙そのものを表す形はそれ以外に考えられない。瞑想して自分を点にする。そして自分と一番離れている宇宙の果てを意識して並べて行いくと球体になる。つまり人間の認識できる最大の形は球体以外にはない。
その球体は五角形と六角形によって隙間なく埋め尽くされるのである。私が注目するのはこの五角形と六角形の意味と必然的に現れる配列なのである。二つの形を隙間なく敷き詰めると球体になる。そのこと自体が驚きであり、その不思議に宇宙を見るのである。
あらためて二つの図形の意味を考えてみよう。
「六角形」は古くから六芒星と関連付けられ、宇宙の根源を表した形として理解されてきた。六角形は雪の結晶にも現れている。なぜこのような形が自然界に現れるのか。今の科学でも完全に説明出来ない深い真理を感じないわけにはいかない。
私の直感は、その意味を空間の姿だと感じるのだ。
空中で水が何の抵抗もなく結晶していくと、空間の形になる。この美しい結晶は、水(H2O)をつくる素粒子同士がたがいに引き合うエネルギーの姿のまま凍りついたと思われるのだ。
空間=エネルギー=六角形。つまり六角形は空間そのものを表した図形だと考えてもいいのである。
六角形が空間を表すとすると、五角形は、物質そのものであると考えられる。
この推論はあまりにも見事に私の提唱する五次元宇宙モデルとつながって行くのである。五角形の意味を考えるとそれが分かる。
「五角形」は図のように、五次元宇宙モデルの形である。これは人間の姿を素粒子で表現した宇宙モデルなのである。
五角形は五芒星につながる。
この五芒星は、宇宙モデルの下描きにした(下図)からも分かるように、A⇒C⇒E⇒B⇒D⇒A・・・と、ひと筆描きが出来るのである。そこからどんな意味がくみ取れるかといえば、五芒星によってつくられる六つの部位(頭、胴体、手足、)は実は一本の線で囲われた輪なのだということなのである。なにから囲われているのか。言うまでもなく空間からである。つまり五芒星は空間の中に身体という己の領域を作りだしているのである。
そればかりではない、五芒星の胴体にある五角形の中には中心の消失点に向かって無限に五芒星が現われてくるのである。スケールの概念がそこから生まれているというのも重要な意味と言わねばならないだろう。
サッカーボール
この五芒星と六芒星の結合をあらためて眺めてみよう。その配列は、五角形と六角形の意味をそのまま表している。つまり物質を表す五角形の周りには、空間を表す六角形しかないのである。物質が空間に浮かんでいる意味が、ここで見事に視覚化されていることに気付かされるのだ。どこか一か所でも、五角形同志がつながっていると球体にはならないのである。
全ての物質は空間に浮かんでいる。それは宇宙の必然なのである。
そこでサッカーボールの五角形に、五次元宇宙モデルを重ねてみると、以下のような宇宙を思い描くことが出来る。
これこそが、心が思い描くことのできる宇宙の全体像と言えるのである。
心とは何か。それは物質ではない。すると心は空間に属するしかないのである。
心が空間に属するのなら、上の全宇宙モデルを見て言えることがある。
心は球体であると。
実際、私達が思い描く世界は、自分を中心に広がって行く認識である。認識できない世界は心に存在できないのである。
言っておけば、「この認識できない世界」も立派な認識であり、心の領域になる。
ここでいう心に存在しない世界とは、私達にその存在の気配さえ気付かないもの、いわば「無の無」のことである。
そうすると、「私」が認識する世界、すなわち心は、「私」を中心にして最も遠い認識の場所をつないだ領域、すなわち球体なのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます