己を穿つ。それがのしてんてん絵画の進む道だと思い定めて、浄光寺の奉讃会に行き着いた。
それが日程のことで、御住職に思わぬ難儀を振り掛けてしまった。
電話の向こうの御住職の声がいつまでも頭に残り続けて、心が曇ったままだ。
心が曇ると、苦悩が生まれる。心のエネルギーが行き場を失い自我の中で淀み苦しくなるのだ。この苦しみはどこから来るのだろうか。
数日私はその根っこを探し続けた。
そのためには苦悩の中にいなくてはならない。
そしてそのためには苦悩を丸ごと受け入れなければならないのだ。
やってくる苦悩を、そのまま空気のように受け入れ、嫌がらず恐れず、愛しい赤子の匂いを嗅ぐように苦悩と一体になる。
するとその先にぼんやりと、苦悩の根っこが見えてくる。
そこに個展という言葉があった。
40年近く個展活動を続けてきた。絵を見てもらいたいという思いの裏に、来場者が誰もいないという恐れがあった。誰にも顧みられない。最低の芸術家だと思われる。そんな恐れは私自身が見たくもない。意識的に隠された自我というしかない。
個展という言葉の裏にそんなものが見えてきた。
苦悩の原因は他の何ものでもない、個展と名づけられた自我そのものなのだ。
そう思い至ったとき、私は驚きよりも喜びが闇を貫く光のように、全身に広がるのを覚えた。
その光こそ本願だったのだ。
本願に行き着いた。そう言っていい。
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