(毎日花の数が増えてきます。今八分咲き)
先日の記事のコメントを意識しながら、私が見ているイメージの世界をもう少し書いてみます。
この記事は、これを読んで下さる方々と一緒に、心の世界を、旅するという想定で書いています。心の風景を見ているのですね。
風景を前にして、私たちはわかるわからないという判断をしながら見るでしょうか。
様々な風景があります。絶景もあれば、荒れ果てた風景もあります。良い風景も悪い風景も私たちはそれを論理で受け止める(受容)するわけではありませんね。
その姿勢を思い出してほしいのです。私たちは風景を感性で受容しているのです。
私たちは論理的に生きているように見えますが、実はそれ以上に、自分がつくり出した心の風景を、己の感性で見て心をつくりだしています。
自分の中に生まれてくる感情を、すべて理詰めで自分に説明する人はいないでしょう。
だからこういうことです。
この心の旅を、知性で満足させようとしたら、その風景は見えてきません。
大事なことは、あなたの感性で見るということなのです。
ここにあるメッセージは、私の思考から生まれたものであって、それ以上でも以下でもありません。それを受け取ったあなたが、言っていることを理解しようと考えるというのでは真逆の効果しかありません。
理屈から解放されて、自分自身の感性気付くこと。それが私自身の目標ですし、この旅に同行してくださる方々の目標になってほしい。私はただそれだけを願っています。
五次元を意識するようになって、そう思うようになったのです。
前回の話は、知性の虚構性から解放されて、真実の中に入っていきたいという思いの中から私の中に生まれてきたイメージです。それをなるべく正確になるように言葉にしたものです。
分からないと思った人は通り過ぎて行くでしょう。
しかし、分からないと立ち止まってくれる方は、きっと自分の中にある感性に興味を持たれている人ではないかと思うのです。
自分の感性を目覚めさせる。
そう望む人にとって、答は一つしかありません。つまり自分の中にしかそれはないのです。
この心の旅に同行していただいている方に、私が言えることは、是非、五次元を感性で とらえていただきたいということです。そして一番重要なことは、そこで感じられる自分との違い(違和感)を大切にしてほしいということなのです。自分との違いを感じたら、それがあなたの本物の感性である可能性が一番高いわけです。目を向けるべきはそこなのですね。
もちろん同感していただくことまでも否定してほしいと言っているわけではありません。同感する部分も、違和感の部分も、それは間違いなくあなた自身の心(感性)だと言いたいのです。
間違っても、5次元をどこかの宗教の教義のようなまねごとだとは思わないでください。主人公は常に、どこに行っても、あなた自身なのですから。
わかるとか理解とかは、感じ取るとか感性とは違う、という所はわかる(笑)気がします。
いえその、ホントはわかってないのかもしれません。禅問答みたいですね…。
言葉は不自由です(苦笑)。時々、イヤんなりますね。ちょっと思うに、絶景にせよ荒廃にせよ、ホンマモンの前では『言葉をなくす』ものだ、ということでしょうか?
ホンマモンの前では言葉をなくすのではなくて、
まず最初にホンマモンがあるわけですね。言葉は、そのあとでホンマモンを説明するためにつくられたのです。
まず感性が働いて、ものごとを感じます。その感じを言葉で言い表すのが知性の働きだというわけですね。
おのれの中のもじょもじょをどうにかしたくて、言葉(理屈)をこねくり回しての幾星霜、なのですから。
なだめたり、すかしたり
分からないけど、頭の中に歌が響きます。
おいら岬の^¥~灯台モーリーは~~