(のしてんてん いのちのかたち : F10号 キャンバスに鉛筆)
今月の新作です。
絵を解説する言葉はありませんが、公開する時、一番大変なことはタイトルを付ける時です。
それが、のしてんてんという言葉をつくるきっかけとなったわけですが、そのいきさつが、知性と感性のせめぎ合いをよく現わしてくれるように思えますので、恥部をさらけ出すようで恥ずかしいのですが少し紹介してみます。
というのも、私が絵を描くとき、そこにあるのは自分の心だけです。描きたいと思うものが出てきたら夢中でそれを描きます。最終的にどんな作品が生まれるのか、考えたこともありません。
今回の作品は、こんな下がきから始まりました。
三角錐と菊。そして命のバランス感覚。そんなものが意識の上にモワーッと浮かび上がります。
動機は、三角でした。三角を描いてほしいという依頼を受けたとき、私の頭に三角錐の上で菊がバランスをとっている図がすぐに浮かびました。
それが何を意味するのかには全く興味はなく、ただひたすら自分の心が心地よいと思えるかたちを探っていくのです。この時私がやっているのは、自分の感性だけを信じて、自分がその感じだけになってしまったような至福感を得ようとすることだけです。
今回は菊の足をどの位置に置いてバランスを取るのが最も心地よいかに迷いがありました。そんな場合はその迷いをそのまま受け入れて、二通りの感性を楽しみます。やがて自然に決まっていくのです。
ここまで下描きが出来てくると、イメージの中に完成された空間が見えてきます。何度も言いますが、それが何なのかを考えるのではなく、見えている風景に向かってひたすらシャーペンを動かします。私の経験では、この時無心になればなるほど、深い風景が生まれるということです。完成まで、やっていることはほとんどそれだけなのです。
完成間近になると、鉛筆で埋め尽くされた黒い闇が、私には心の空間そのものに見えてきます。するとその時初めて、自分が何を描いていたのかに気付きます。心の空間の中で、私のイメージが泳ぎ始めます。この自由な空間、それだけでいいのです。
しかしそれは何なのでしょうか。どうすればこの世界を正しく言葉で紹介することが出来るのでしょう。
作品を公開するとき、表題を求められて、初めてことばで作品を考えさせられます。それがどれだけムツカシイことか、想像していただけると思います。
タイトルを付けるという作業は、感性の仕事を知性で紹介するようなものです。その隔たりは途方もなく大きいと思えてなりません。
この心の世界を「のしてんてん」という造語で言い表そうと考えたのが40年前、初めてギャラリーで展示をする作業の最中でした。
つまり言いたいのは、感性で描くイメージと、知性が表現することばには、それだけ大きな隔たりがあるということなのですね。
文学の世界では、この感性の世界を、ことばで現わすわけですから、さらに複雑な心の葛藤が生まれるのかもしれません。
感性と知性が混然一体となってしまうのは避けがたいことなのでしょう。しかしそれでも、大事なことは、自分の心を喜ばせようとする意志なのでしょうね。
自分の心が喜ぶことは、必ず人の心に伝わる。そう固く信じる事。そのことが先日信じることと体験のはざま(4) で紹介した、慧純師からお聞きした 信心 ということなのかもしれません。
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