徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

寂しい随兵寒合(ずいびょうがんや)

2020-09-15 17:12:09 | 熊本
 朝晩めっきり冷えてきた。今日は9月15日。かつては藤崎八旛宮例大祭の随兵が行われていた日である。まさに「随兵寒合」の言葉どおりだ。しかし、ことしはコロナ禍のせいで随兵は中止となり、なんとも寂しい「随兵寒合」となった。
※随兵寒合とは
 藤崎八旛宮秋の例大祭は長い間、9月11日~15日に行われてきた。この頃になると急に気温が
 下がり、秋の気配が濃くなることを言う。

▼過去の藤崎八旛宮例大祭から

勢いよく駆け出す飾馬


馬追いの勢子たち


御旅所での御能奉納

二の丸屋形の石垣に龍が!?

2020-09-14 19:11:58 | 歴史
 先月中旬の熊日新聞に面白い記事が載っていた。熊本博物館(熊本市中央区古京町)の北側に位置する二の丸屋形跡(現在は旧細川刑部邸が移築されている所)の石垣に、まるで竜をかたどったように見える石の並びが見えるという内容。
 今日、散歩をしている時に思い出し、ちょっと確かめてみようと立ち寄った。しばらく、「どの部分かな?」と思いながら眺めていると、今日は休日のはずの博物館の中から一人の男性が現れ「何をご覧になっていますか?」とたずねられた。来意を伝えると、それじゃあと解説を始められた。なんとこの方が熊日記事の情報発信元である学芸員の中原幹彦さんだった。それから約30分にわたり、竜に見える石の並びとそう見える根拠や歴史について懇切丁寧に説明していただいた。
 その要点は次のとおり。

 この石垣は第八代熊本藩主・細川斉茲公が隠居後に住んだ二の丸屋形の外構で、幕末に近い1824年頃に築かれたとみられること。旧豊前・豊後街道沿いで、明治以降は軍用地になり埋められたが、1973年の発掘調査で再び地上に現れたこと。石積みが行われた時代は石工技術が発達しており、積みやすいように四角に加工することはたやすかったと思われるにも関わらず、不揃いな形の石を並べて、しかも明らかに目地の連続性が見られるのは何らかの意図があったとしか思えないこと。
 また、ここは地形的には谷筋にあたり、砂薬師坂に向けてなだらかに下っている。雨が降ると二の丸御門側から川のように雨水が流れたと考えられ、水と縁が深い竜がさかのぼる構図とも考えられる。

 概ねそのような話でしたが、さて皆さんはどのように見えますか?




熊日新聞記事より

金峰山は「きんぽうざん」 OR 「きんぼうざん」?

2020-09-13 17:22:37 | 熊本
 昨日のRKKローカル番組「土曜の番組」では、熊本市のランドマークとして市民に愛されている金峰山の呼び方が「きんぽうざん」なのか「きんぼうざん」なのかをハッキリさせようという企画をやっていた。市民へのインタビューでは「きんぽうざん」派が圧倒的に多かったが、案内板などの標記は「きんぼうざん」と書かれているものも多く、市の担当課の見解もハッキリしない。結局、どちらでもかまわないというというような曖昧な結論に終わった。
 そもそも、はたして二択なのかも疑問だ。僕の祖母は「きぼうさん」と呼んでいたし、古い資料にも「きぼうさん」や「きぼうせん」とも呼ばれていたと書かれている。もともと「飽田山(あきたやま)」と呼ばれていたが、平安時代初期、大和国の金峰山(きんぷせん)権現を山頂に勧請して以来、金峰山と改称されたという。その後、人々は様々な呼び方をし、それが今日まで続いているのだろう。
 国語的な解釈から言えば、「金峰」のように撥音(ん)や促音(っ)の後に続くハ行音の連濁は「パピプペポ」にするのが普通のような気がする。だから、「きんぽうざん」と呼ぶ人が多いのだろう。
(例)憲法、前方、緊迫、腕白、鉛筆、潜伏、年俸、燃費、澱粉、審判、密閉、鬱憤、日本、切符 etc.

 最後に「金峰山」を謡った古謡を一つ
 西は名におう飽田山 筑紫の富士とごらんせよ


熊本市内から望む金峰山(彼方の最も高い山)

美空ひばりが舞う「朝妻舟」

2020-09-12 17:48:17 | 音楽芸能
 滋賀県彦根市に住んでいたのはもう26年前になる。仕事でも私用でも長浜にはよく行った。行く時はいつも琵琶湖東岸の湖岸道路を使った。琵琶湖を眺めながら10分ほど車を走らせると、その昔、朝妻湊(あさづまみなと)があったという場所を通過する。この湊は中世の頃、琵琶湖水運の要衝として大いに栄えていたが、江戸時代に入って内湖の米原湊(JR米原駅東口にその跡あり)にその役割をとって代わられ衰退したという。
 また、朝妻湊には遊女が乗る朝妻舟の伝説が残る。英一蝶を始めとする多くの画家たちが画題としているが、烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を持つ構図はみな同じだ。もとは零落した平家の女房たちが客をもとめて舟を浮かべたという。
 江戸中期には山田検校が「今様朝妻舟」として筝曲化し、江戸後期には歌舞伎舞踊「浅妻船」として舞踊曲化された。
 昭和30年に、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘による映画「ジャンケン娘」が製作され、劇中、美空ひばりが「浅妻船」を舞う珍しいシーンがある。







英一蝶の「朝妻舟」

 
鈴木春信の「朝妻舟」        木曾路名所図会「朝妻舩」


     ▼美空ひばりが舞う「朝妻舟」(映画「ジャンケン娘」より)

実りの秋と成道寺川

2020-09-11 18:11:15 | 日本文化
 久しぶりに成道寺川を見に行く。川沿いの田圃の稲が頭を垂れ始めている。実りの秋を実感する。

 成道寺川はと言うと、水質は良さそうだ。ただ、特定外来生物のブラジルチドメグサが繁茂しつつあるのが心配だ。また、いままでこの川では見たことのない魚体の大きな魚を目撃した。すぐに藻の下に潜ったので確認できなかったが鯉かもしれない。この川は絶滅危惧種のスナヤツメや二枚貝等が棲息する自然環境が残された貴重な河川。鯉は在来生物を捕食すると聞くのでこれも心配だ。さっそく、熊本博物館 の動物担当学芸員である清水先生にメールを入れた。
 
 この季節になるとおきまりのように聞くのが「秋の色種」。何度聞いても素晴らしい演奏だ。


成道寺川の清流


稲穂が頭を垂れ始め実りの秋を実感


田圃の脇では秋の色種が…



内海桂子師匠を悼む

2020-09-10 13:44:39 | 音楽芸能
 今朝の熊日新聞に長唄三味線の今藤珠美さんが、先月他界された漫才の内海桂子師匠を悼む記事が掲載されていた。お二人は長い交流があったそうで、中でも熊本地震があった2016年の秋に熊本県立劇場で行われた熊本地震復興支援チャリティ「内海桂子と輝く仲間たち」の舞台が思い出深いと述べておられる。
 僕は内海桂子・好江のいかにも浅草芸人を思わせる話術と唄と三味線を駆使した漫才が大好きだった。好江師匠が亡くなってから拝見する機会がほとんどなく、最近は弟子のナイツのディスりネタにその名前を聞く程度だった。4年前の熊本地震復興支援チャリティも見に行ったが、内海桂子・好江のお二人が健在だった頃の漫才をナマで見たかったと思う。心よりご冥福をお祈りいたします。





舞台挨拶をされる内海桂子師匠(2016.10.2 熊本県立劇場)


最後列真ん中の立三味線が今藤珠美さん

オシロイバナ(白粉花)

2020-09-09 21:12:53 | 日本文化
 所用の帰り道、瀬戸坂を歩いて登って来ると道端に赤い「オシロイバナ」が咲いていた。顔を近づけると微かに甘い香りがする。なぜ「オシロイバナ」なのかというと種子の中身がオシロイのような白い粉なのだそうだ。そういうからには実際、オシロイの代用に使った人もいるのかもしれない。原産は中南米だそうだが、日本へは江戸中期に中国経由で伝来したらしい。
 この花の思い出と言えば、幼い頃、夏休みになると玉名市大浜町の母の実家に長期滞在した。楽しみは菊池川河口の砂洲での川遊びだった。家から5分ほど歩けば着く距離だったので、裸足で川砂の道を走って行く。足の裏が熱いので走らざるを得ないのだ。そして半日を砂の上で過した後、日が傾いた帰り道の道端にいっぱい咲いていたのが「オシロイバナ」だった。僕の原風景ともいえるだろう。
 そんな遠い夏の日のことを思い出しながら「オシロイバナ」を匂っていると、毎年観に行く熊本城城彩苑の花魁道中の匂いに似ている気がした。


オシロイバナ


花魁道中

「雨にぬれても」と「自転車日記」と「自転車節」

2020-09-08 16:14:14 | 音楽芸能
 一昨日投稿した記事「ザ・わらべ@熊本城本丸御殿 舞踊撰集」に、ブログ友の小父さん様がとても面白いコメントを寄せて下さった。
 最後の曲「熊本自転車節」の二番の歌詞から、映画「明日に向かって撃て!」の主題歌「雨にぬれても(Raindrops Keep Falling On My Head)」を連想されたそうだ。

 「明日に向かって撃て!」は1969年に公開されたアメリカン・ニューシネマの代表作の一つとされる西部劇。バート・バカラックとハル・デヴィッドの名コンビによる主題歌「雨にぬれても」(唄:B.J.トーマス)は、主人公のブッチ(ポール・ニューマン)と相棒サンダンス(ロバート・レッドフォード)の妻エッタ(キャサリン・ロス)が自転車に乗って戯れる印象的なシーンで使われたこともあって大ヒットした。

 小父さん様が「自転車節」に注目されたコメントを読んでふと思い出したことがあった。それは夏目漱石の「自転車日記」のことだ。漱石が熊本を離れ、ロンドン留学に赴いたのは明治33年(1900)。そして日本への帰国も迫っていた明治35年(1902)の某日、下宿先の婆さんから強制的に自転車の練習をさせられる様子が描かれている。
 一方、ブッチ&サンダンスがユニオン・パシフィック鉄道の急行列車を襲ったのが1899年、明治32年のことで、映画で描かれた自転車乗りはその後の出来事として描かれている。つまり、漱石とブッチ&サンダンスの時代は重なっていて、生年はブッチが漱石より1年早く、サンダンスは漱石と同い年なのである。19世紀の後半頃から、ヨーロッパでは自転車が大流行しており、それはアメリカにも伝わっていたことがわかる。自転車の流行は日本にも伝播した。日本でも明治のなかばには国産車も作られ、輸入も行なわれていたが、まだまだ自転車は一般庶民には高嶺の花。そこで自転車の時間貸しという商売が生まれ、借料は高価だったにもかかわらず大流行した。明治42年(1909)に、こんなハイカラ風俗を風刺した演歌師、神長遼月が作った「ハイカラ節」が流行、翌43年(1910)には「自転車節」として広く歌われていたらしい。昨年の大河ドラマ「いだてん」で使われた「熊本自転車節」はそんな時代背景を象徴する一つでもあったのだろう。








大河ドラマ「いだてん」で「熊本自転車節」を唄いながら自転車を漕ぐスヤ(綾瀬はるか)

ザ・わらべ@熊本城本丸御殿 舞踊撰集

2020-09-06 19:27:24 | 音楽芸能
 4年前の熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城は、大小天守を先行して復旧工事が進んでいるが、地震前、人気スポットだった本丸御殿の復旧工事が完了するのは10年以上も先の話。かつて本丸御殿大広間が邦楽や舞踊などで華やかに彩られていたあの日々が、再び帰って来ることを願ってやまない。


熊本地震前の本丸御殿



    〽松(本條流祝儀曲)
    〽藤寿三番叟(藤本流祝儀曲)
    〽牛深三下り(牛深民謡)
    〽ポンポコニャ(熊本民謡)
    〽伊勢音頭(伊勢民謡)
    〽熊本自転車節(熊本民謡)
  • 企画演出・振付:中村花誠
  • 立方:少女舞踊団 ザ・わらべ
  • 地方:本條秀美と秀美社中/藤本喜代則と喜代則社中/中村花誠と花と誠の会 他

野分のはなし。

2020-09-05 19:30:10 | 文芸
 大型で非常に強い台風10号に備え、ガラス戸や窓に養生テープを貼りながら、先日の「プレバト俳句」をふと思い出した。永世名人となった梅沢富美男の傑作集を50句集めて俳句集の出版しようという企画があり、毎回、与えられたお題で新作を夏井先生に「採用」か「ボツ」かの査定をしてもらう。
 先日のお題は「お箸」で梅沢の句は
 「野分の夜ほぐす卵ののの形」
秋の季語「野分(のわき)」(台風の古称)を使って自信満々の句だったが、結果は「ボツ」。シュレッダーにかけられてしまった。夏井先生評は主役たるべき季語「野分」が活かされていない、というような話だったと思う。

 「野分」は夏目漱石の作品の一つでもある。先日、このブログで取り上げた「二百十日」と対で語られることが多い作品だ。「二百十日」が、主人公たちが実際に阿蘇山で嵐に遭うのに対し、「野分」にはそんな場面はない。ただ一度だけ、女の歌う歌詞として「野分」が次のように登場する。

白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ。

 このことから、小説「野分」でいう「野分」とは自然界の現象としての嵐や台風のことではなく、人間の意志や行動によって起きるストレスみたいなものを言うたものらしい。


トム・シーバーさん

2020-09-03 19:11:33 | スポーツ一般
 大リーグ通算311勝の大投手、トム・シーバーさんが亡くなったという。それもコロナに感染してというから二重にショックだ。僕らと同世代、大リーグの投手の中で最も好きなプレーヤーだったかもしれない。一番見ていたのは77、78年頃のシンシナティ・レッズ時代だ。当時、フジテレビが大リーグの中継をやっていて夜中によく見ていた。その頃のレッズはビッグレッドマシンと呼ばれた強力打線で75、76年のワールドシリーズを制した黄金時代からやや下り坂にさしかかっていた頃で、シーバーも期待通りの活躍をみせたがリーグ優勝はならなかった。とにかく彼の流れるような投球フォームが大好きだった。名投手のご冥福を祈る。合掌


ブリヂストン

2020-09-02 22:13:18 | 
 27年間勤めたブリヂストンのOB会報が不定期に送られてくる。その中に訃報欄があり、最近、知人の名前を見ることが多くなった。直近号には、50年前、僕が新人として最初に配属された部署の課長さんの名前が載っていた。初対面の時の印象や飲みに連れていっていただいた時のことなどを懐かしく思い出した。感謝の気持を込めながらどうぞ安らかにと手を合わせた。
 社員時代は、ずっと人事労務部門に配置され、幅広い仕事を経験させていただいた。おかげで石橋正二郎創業者を始め、歴代の社長など多くの方々にもお会いすることができたことは、一生忘れられない貴重な体験だ。


二百十日

2020-09-01 20:26:18 | 日本文化
 今日は9月朔日というわけで藤崎八旛宮へお参りに行く。今月も参拝客は少ない。回廊にはこれから虫干しをするのか、随兵の具足を入れた木箱が置いてあった。今年は使われないまま再び木箱にしまうのだろう。なんだかせつない気持になる。
 ところで今日は二百十日(立春の日から210日目)である。つい夏目漱石の「二百十日」に出て来る次のくだりを思い出す。

「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎に這入ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛の返事をする。
「じゃ、ともかくもその栓を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」

 この珍妙なやりとりは、夏目漱石が五高教師時代に、友人で同僚の山川信次郎とともに阿蘇登山した体験をもとに書いた「二百十日」の中の一節。泊まった内牧の温泉宿における女中とのやりとりである。女中の「ねえ」という返事は、今日ではほとんど使われないが、下男や下女が主人に対して「はい」の意味で「ねい」と答えていたという。「ねい」と同じ意味で「へん」という返事もあったが、こちらの方は僕が子供の頃、物売りのおばさんが使っていた覚えがある。明治後期の高等女学校では「卑俗なる言葉」として矯正教育が行われたと聞く。