縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

災害関連ゴミからよみがえった塗り箸+ぷるぷるゆれる勾玉カンザシ・・・能登半島地震ボランティア

2024年05月09日 07時31分18秒 | ぬなかわヒスイ工房
輪島市の繁華街を走行中に、損壊した店舗兼住宅で瓦礫の分別をしていたご婦人に手伝いを申し出た。80代の女主が経営する創業70年の呉服屋さんで、高齢で跡取りもいないので再建はあきらめて店仕舞いするとのこと。
被災者の輪島漆器を代行販売して義援金を渡すボランティアをしていると自己紹介したら、災害関連ゴミとして捨てる予定だった大量の塗り箸をいただいた。
 
ボランティアで中断しているヒスイ加工の創作欲求が抑えがたくなっていたので、「ぷるぷるゆれる勾玉カンザシ」を塗り箸でつくり、売上金の10%を義援金としてお渡しすることを約束。
左が加工前の塗り箸で右が「ぷるぷるゆれる勾玉カンザシ」の加工品。
 
箸の長さは人差し指と親指をV字にひらいた「ひと咫(アタ)」の1.5倍が適切とされているので、市販の箸の長さは22.5㎝前後が標準。性別や年齢別で食具の長さをかえるのが、身体尺を基準にする日本の文化だ。
しかしこれではカンザシとしては長すぎるので、カンザシ愛用者から聞き取った「長くても18~20㎝が適切」との意見をとりいれて長さ6寸(18㎝強)を常寸にすることにした。モデルは工房に遊びにきた女友達の理恵嬢。
 
塗の箸の先端をカットした後の処理をどうするかが問題で、箸を塗った塗師への敬意もあり、元からそうであったような自然な加工を心がけて10本ほど試作。
黒紋付が赤や藍に下染めしてから深い漆黒に染めあげるように、黒い箸も赤茶の箸も朱漆が中塗りされていた。これも日本の工芸文化の深み。
箸・橋の語源は離れた端(ハシ)をつなぐモノとする説があるが、箸は食物と身体をつなぎ、橋は陸地を繋ぐ。能舞台の「橋掛かり」はあの世とこの世をつなぐ幽玄世界の演出だ。
そんな意味をこめて塗り箸のカンザシで能登を橋渡しするカンザシが商品開発の経緯で、ボランティアに明け暮れる生活の「箸休め」にこのカンザシつくりました!とテレビインタビューで言ったら、オチがついてる!座布団1枚!とウケてたけど、オンエアされたらウレシイ( ´艸`)
 
約束のカンザシ!義のカンザシ!災害関連ゴミからよみがえった塗り箸カンザシ!ぷるぷるゆれる勾玉カンザシ!
 
仕事の収入がなくなった山田も支援してちょうだいw
 
 
 

窓の外にUFOが見えると訴える被災者・・・勾玉つくりで日常をとりもどす

2024年03月25日 08時03分36秒 | ぬなかわヒスイ工房
顔なじみの被災者にお困りはないですか?と聞いたら、窓の外にUFOが出るというので、ずーと確認し続ける。ボランティアは地道な作業であっても、寄り添うことが肝要なのである。
光をヒスイに透過させて浮かび色にもいろいろあるが、緑一色だとおお!と唸る。ヒミコやヌナカワ姫も太陽に透かしてみたに違いない。
 
視線を動かした時にガラス窓の汚れがUFOに見えたのでは?と思いつつ見続けていたら、上空高くギターがフワリと回転しながら風に飛ばされていった。これをどう理解する?・・・変な夢であったw
 
3月になってようやく本業をスタート。
非日常的な被災地ボランティアをしてたら、自分の日常がわからなくなってきた。日常の生活を大事にしてこその災害ボランティアなのだが、つい入れ込んでしまう。
緑一色の透過光写真の勾玉は順光だとこんな感じ。秘すれば華というような奥ゆかしさを感じる。
 
久しぶりの勾玉つくりは愉しいってもんじゃない。
 
あと2週間ちょっとで糸魚川に春を呼ぶ「けんか祭り」だ。問答無用の荒ぶる祭りだから、激しいほど神さんは喜ぶ。
 
氏子にとって神さんは祖霊に直結している。先祖が我が身を依り代として共に闘う実感がたまらない。懐かしいはチカラ。
 
能登に日常がもどって欲しいものだ。
 
 
 
 

勾玉の型を遺物に学ぶ・・・臨作、そして守破離

2024年02月17日 06時40分30秒 | ぬなかわヒスイ工房
書道家の臨書と同じく、遺物の臨作(複製)は操作願望や予定調和からの解放だ。型の中で無心に遊ぶ感じが心地よい。
最近はやわらかい滑石で臨作。手本は弥生時代中期の宇木汲田遺跡出土の丁子頭勾玉。
 
今どきの日本人の多くは型という言葉に「型にはめるのはよくない」とマイナスイメージを持つが、日本の諸芸は型を学ぶことからはじまる。
型とは均一さや規格などではむろんなく、カタチそのものではない。型はカタチを生み出す原動力、内実の源泉と気づく。
次に蛇紋岩で臨作。
 
「平成の大首飾り」で243点もの遺物の複製をさせてもらってから弥生時代の勾玉に魅了され、手本にしていた宇木汲田遺跡出土の丁子頭勾玉のつくり方を研究していたが、ついに蛇紋岩やヒスイの実物大つくりに成功した。
そしてヒスイで臨作。以前の遺物モデルは光沢がでるまで研磨して艶消ししていたが、ここ最近は遺物のような半艶研磨でも切削傷なく整えられるようになった。遠回りしたプロセスがあってこそ。
 
宇木汲田勾玉ブラザースの記念撮影w
 
しかし文化的な必然性があった往古と、現代では包含する重みがぜんぜん違うから、当時の勾玉と比べると我が勾玉はなんと浅薄なものよと打ちひしがれる。この自覚を昔の人は「型なし」と自嘲した。
 
この気付きの自覚こそが中級者のスタートライン。あたらしい気付きのたびに、その境地の初心者になる。
 
型を学び、独自の工夫を見出し、型から離れることを守破離(しゅはり)というが、臨作を重ねることが「型あって型なし」の境地への道筋ではないだろうか。ちょっと大人になった気分w
 
 
 
 

勾玉の時系列をビジュアルで解説・・・ヒトと勾玉の物語

2024年02月10日 07時53分08秒 | ぬなかわヒスイ工房
遺物モデルの滑石勾玉を時系列で並べて展示し、体験会や講演会の時に持ち出せる工夫をした。
壁に固定した展示枠の上が開いているので、展示板を上に引き上げて外すことができるようになっている。
 
縄文早期末の黎明期→断絶期→後期末の復興期→500年の断絶期→弥生中期の復興期→数千年の断絶期→近代以降の復興期と、断絶期の後に必ず大きな好みの変化と技術革新があるのは何故だろう?と考察してもらう資料になると思う。
 
勾玉やヒスイのトンデモ説を信じこむ人は多く、ヒスイ職人ならスピリチュアルな話しが好きとか、霊能力の持ち主と思われることもある。確かにそれを売りにする職人や販売業者も少なくはない。
 
しかし、わたしは霊感商法モドキとは距離を置いてアカデミズムの知見を基盤とし、自分の体験で得たこと以上は言わないと高らかに宣言・・・しなくていいようにつくったのデス( ´艸`)
 
興味のある人は勾玉の系譜、つまりは物語について書いた下記も読んでちょうだい。
上段3個はおよそ6,000年前の縄文早期末~前期の勾玉で、この当時はヒスイで不定形の大珠はつくられていても、勾玉は加工技術が未熟であったのか、それとも何か素材に込める意味があったのか不明だが、ヒスイではつくられずに滑石や蛇紋岩でつくられている。形状的には石製の牙玉とその派生形、あるいは半分に割れた玦状耳飾りの再加工品であって、この当時は胎児っぽさが前面に出てはいない。
 
不思議なのがその後2,000~3,000年間は、大珠はカツオ節形やドーナツ形など盛んにつくられていても勾玉の類例の出土が極端に少なくなるセミ断絶期となることで、稀に出土しているのは前期の伝世品?それとも細々と命脈を保っていたものか?
 
中段3個はおよそ3,000年前の縄文後期~晩期の勾玉で、大きな好みの変化や技術革新があったらしく、このころからヒスイ製となり、明確に胎児を意識したような形になる。この後の弥生中期まで500年間の断絶期!
 
そして下段の左が弥生中期の北部九州に登場する丁子頭勾玉で、明らかに縄文時代の勾玉の形状に変化し、つまりは意味が違ってきた可能性が伺えるのではないか?技術もより高度になり、バリエーションも豊富になる。
 
中央が粗製乱造されるようになった(笑)古墳中期の山陰系勾玉モデル。素材は青碧玉や赤メノウであって、なぜかヒスイで勾玉がつくられなくなる。威信材(権威の象徴)のヒエラルキーのトップが金属器や絹織物にとってかわられたからだろうか?
 
三度の断絶期は、江戸中期~昭和の好事家・考古家たちに勾玉が再発見されてコレクションの対象となり、贋物?や新作がつくられるようになる近代と、戦時中にヒスイが再発見されて戦後から一般に流通する現代に至る。右端がわたしのオリジナル勾玉。
 
一概に勾玉とは!と一括りに断じられないことがお分かりいただけると思う。断絶期の後に好みが変化して、技術革新があるのはなせだろう?海の向こうからヒトの交流があったと考えるのが自然ではないか?では日本人とは?日本の文化とは?ヒスイや勾玉をベースに興味は多岐に派生してゆく。
 
これがヒトとヒスイの物語。
 
 
 

仕事はじめは遺物の複製・・・古に学ぶ

2024年02月08日 07時13分36秒 | ぬなかわヒスイ工房
工房の耐震改装を終えた仕事はじめに勾玉の系譜を説明しやすいように、時代ごとの典型的な遺物を選んで滑石で複製した。
縄文早期末~現代の勾玉の複製は、勾玉体験会などでつかわれている道具に加えて石錐やハマグリの貝殻など。
 
その中で最大の関心事は、勾玉の最高峰といっていい弥生時代中期の北部九州の丁子頭勾玉で、電動工具は回転運動であるために球体にちかい頭部と腹部の接合部分に、どうしてもアールがついてしまうのが癪だった。
手作業による前後運動でないと、実物のような線状の接合にはならないと推測していたが大正解で、実測図と写真でしか見たことがない手本にした宇木汲田遺跡の丁子頭勾玉の存在感に圧倒される。
 
次は頭部の3本の刻みのつくり方。丁子頭勾玉の刻みには宇木汲田遺跡出土品のような三角に広がった溝の深いタイプと、ほぼ同じ深さの刻みの溝が浅いタイプの二種類あり、前者は60°前後の角度をもつ三角形の石錐で刻んでいることがわかった。
いろいろと試したが、三角錐の鉄錐でいい具合になった。
宇木汲田遺跡の遺物は縦50㎜弱もあるので、わたしの勾玉の中でも大きい部類の縦27㎜を横に並べてみた。いかに北部九州の勾玉がでかいかわかると思う。
 
なんで頭部に刻みを入れた丁子頭勾玉をつくったのかは当時の作者でないとわからない。あるヒスイ販売業者が「やっぱりぃ、インパクトじゃないでしょうかね!」と軽く言っていたが、ではなんでインパクト出す必要があるの?知ったかぶりしてはいけない。
 
勾玉ってなに?も同様。都合よく情報を切り張りした独断を史実のように公表して商売する、ニュー・アカデミーさんやスピリチュアルさんにはなりたくないので、ヒスイ職人のわたしは書道家の臨書と同じ意味で臨作する。そのプロセスの中で気づくモノがあれば、真偽はともかく行為から得た感覚にウソはない。
 
 

備えあれば憂いなしの耐震DIY・・・工房の耐震改装工事終了

2024年02月07日 06時59分53秒 | ぬなかわヒスイ工房
朝6時に久しぶりの揺れで目覚めた。
重たいものは下へ・出し入れしやすい・掃除しやすさをコンセプトに工房ギャラリーの耐震補強がやっと終わり、今週から工房仕事を再開した。
桐箱に入れて立てかけてあった「古代風首飾りヌナカワ姫・ヌナカワ彦」は地震で落ちたので、紙芝居の箱式の収納箱の横から出し入れできるように壁固定。こんな時のために塗り壁下地は、石膏ボードの下にベニア板を捨て貼りしてあるのでどこでもビスが効く。面倒だけど大事なこと。
転がった土器は博物館の展示のように釣り糸で固定してしまうと出し入れができないので、タンスの上に動かない工夫をした枠に収めた。
以前より片付いたので眺めてはニヤニヤしているが、備えあれば憂いなしで油断大敵だ。
 
 
 

年内最後の勾玉つくりは「縄文三兄弟」・・・北から南にそっくりさん勾玉が出土しているのだ

2023年12月29日 07時26分11秒 | ぬなかわヒスイ工房
縄文なかよし3人組から、同じ原石で遺物モデルの勾玉3個の注文品が年内最後の勾玉つくり。
縄文三兄弟の勾玉は、遺物っぽい感じをだすのに、不純物の多い緑系ヒスイをつかい、しっとりした艶消し仕上げにしてみた。
 
モデルにしたのは左と中央が青森の朝日山遺跡と上尾駮遺跡・新潟の元屋敷遺跡、北海道南部から出土した勾玉の類型で、このエリアの勾玉は見分けがつかないくらい似ている。右端がなんと遠くはなれた福岡県の高畑遺跡モデル。
中央が福岡の高畑遺跡モデルで左右が新潟・青森・北海道モデル。実物の写真だけで比較するとそうでもないが、三つともぽっちゃりカワユクつくったら、額部に1条の刻みがある胎児形のバリエーションであることが鮮明になりましたナ。勉強になりました~。
ついでながら中央左上の三角形っぽい勾玉は、阿賀野市の弥生時代の山口遺跡から類型が出土していて、縄文の遺物とは明らかにちがってプレートをつくった上でカチンとした扁平に仕上げてあり、好みの変化や技術革新があったことが伺える。
山口遺跡から出土した勾玉モデルはスクエアーな形状。ネフライトでつくった作品。
 
3,000年前に新潟・青森北部・北海道南部に共通の勾玉文化圏があったことや、北部九州にどんなルートで伝わったのか?勾玉ってなんだろう?不思議だらけ。
 
 
 
 

転んでもただは起きぬヒスイ職人・・・縄文の涙滴形勾玉の謎

2023年12月19日 07時37分57秒 | ぬなかわヒスイ工房
千歳市の「美々遺跡」出土の涙滴形の勾玉は、加工途中で割れた勾玉のリメイク品ではないか?と直感した。他に類型がない珍しいカタチだからなおさらそう思った。
こんな感想を北海道埋蔵文化財センターの先生にはなしたら、「思いもしなかったけど、ヒスイ職人さんらしい意見ですねぇ。」と怪訝な顔をしてらっしゃったが、ヒスイ加工歴30年以上の大先輩に写真をみせたら、わたしとまったく同じ意見だった。
プレートつくりをするのは、随意のカタチに加工しやすいからという他に、割れる石目を観察する目的があるのだけど、それでも途中で割れることがあり、もったいないから欠片の形状を活かした小さな勾玉につくりかえる。
この勾玉をみた時に3,000年前の先達に「やっちゃいましたねぇ、勾玉つくりアルアルですよねぇ、わたしもたまにやっちゃいますわ」と、話しかけて、わたしのリメイク品をみせたくなった。
証明しようもいないことだけど、ヒスイ職人なら同じ意見をもつことは間違いない。
昨年に美々遺跡の勾玉とそっくりな勾玉をつくったこともあり、ギャラリーに並べておいたら「これ超かわいい!」と買ってもらえた。写真を撮っておけばよかったナ。
 
転んでもただは起きぬヒスイ職人w
 
 

ヒスイ原石が勾玉に生まれ変わる・・・ドキュメント勾玉つくり

2023年12月12日 18時39分56秒 | ぬなかわヒスイ工房
青ヒスイ(入りコン沢産)の原石の状態と、勾玉になった時の色の比較デス。
微細な凸凹が平滑になると彩度があがり、模様も浮かび上がってくるのだが、天然物はヒトを介して生まれかわる。松尾芭蕉の云うところの「造化」というヤツだ。
 
ヒスイ加工は造形や研磨より以前に、原石カットの観察が肝で、この精度の良し悪しで作品の出来栄えは決まるといっても過言ではない。わたしが避けるべき石目や不純物を読み、自信をもって原石カットができるようになるまでに5年はかかった。
上の写真の原石からプレートにした状態。右の原石は割れそうな石目を曲芸的なカットをして二枚にした。石目が目視できるように傷取り研磨してある。
 
この技術を身につけたからこそ、ここ数年来は販売店さんから高額な希少原石を託されて、勾玉つくりを頼まれるようになった。
「この原石をお金にできるのはあんただけだわ」と、プロが手を出さないような小さな端材からの勾玉つくりも頼まれるが、この写真がそれだ。
二枚目の写真の右端でつくった勾玉がこれ。別物でしょ?
 
超小型の勾玉が、どれだけ小さい端材からつくられているのかを、お客さんに見せては驚かせるのが楽しみのひとつ。そんな時に声を低くして「プロですからっ」とウケをとるのだw
ヒスイ加工をしてみたい初心者は、最初にプレート状に加工された原石を買う人が多いようだが、プロを目指すなら原石の塊りから無駄なくプレートつくりできる技術は必須。
最低で原石取りとヒモ孔あけは5年やって中級者だし、造形と研磨は10年でやっと中級者なのだと実感している。初心者のころから紐孔の内部も研磨していたが、このところもっと精度がよくなる新発見があった。ヒモ孔だけでも奥深い。
 
勾玉つくりなんて簡単!なんて言わせないぞw
 
 
 
 

勾玉のサイズでデザインを変える訳・・・「ヒトとヒスイの物語」があるから

2023年12月10日 08時40分44秒 | ぬなかわヒスイ工房
ザイズに関わらず同じデザインの勾玉でつくる人は多いが、わたしはサイズなり、ヒスイなりにデザインを変える。
例えばオードリー・ヘプバーンを子供のサイズに縮めて、彼女が愛用していたジバンシイのドレスが似合うのか?子供時代のオードリーさんのカワイサもあるハズだから、ちいさな勾玉は子供の頬っぺたみたいにポッテリした印象の勾玉に仕上げるのがわたしの流儀で、そこには無自覚に物体を擬人化する志向があるように思う。
 
素材のヒスイそのものを重要視するのではなく、ヒトを介してつくられた「ヒスイでつくった勾玉」であることに重きを置くから、立体造形物としての完成度はおろそかにできないと考えているからだ。
 
ヒスイをパワーストーンというなら、そのまま持っていればいい。しかし縄文人はちがった。堅くて美しく希少なヒスイに出逢って、ヒスイそのものではなく、わざわざ大珠や勾玉に加工して、身に付けることを選んでいるではないか。素材からモノへ。
 
愛着のある天然物そのものではなく、特別な意味をもたせたであろうカタチに加工して身につけたのはナゼ?それをするのがニンゲンらしさで、そこに他者を我と同化させる一種の擬人化を感じとっている。つまりは物体の擬人化とは、我との同化志向ではないか?
 
それは石笛も同じで、天然石笛がホンモノで、人工石笛をニセモノと評価するのは、現代的な合理主義というもで、ヒトを介して産み出されたモノであることが重要なのだ。
 
こういった「ヒトとヒスイの物語」こそが大事だと思うから、「勾玉ってなんだろう?」と、自問し続けながらヒスイ加工している訳だ。