ケネデイが大統領就任式で演説した「あなたのために国が何をできるかは問わないでほしい。あなたが国のために何をできるかを問うてほしい」は、米沢藩主の上杉鷹山の政治理念がベースになっているという推論がある。
来日時の記者会見で「日本で一番尊敬する政治家は?」と質問されたケネデイ大統領は、即座に上杉鷹山の名前をあげ、当時の日本人の誰もが鷹山って誰?と首をかしげたことは有名だが、ケネデイは内村鑑三著「代表的日本人」を読んで知ったともされる。ただし文章記録はなく、憶測の域をでないようだ。
その手本にした政治理念とは、自助・共助・公助の「三助」であり、これが鷹山の造語であると知って驚いた。
しかし経世済民の権化のような鷹山が唱える自助とは、まず自力で命を守る心がけを啓発する現在の防災警句とは、重みと方向性がちがうのではないか?
財政破綻寸前の米沢藩主としてかかげた三助とは、疲弊した農民が安穏と暮らせるように、減税措置をおこない、麦作や換金作物の作付けを奨励をして、「農民が経済的に自立し、相互扶助できる生活基盤を整備」をする三位一体となった政策の目標であり、自分のことは自分でやれといった放任ではなかったと思う。
藩主の鷹山自らが率先して鍬をとり、最初は抵抗された藩士にも質素倹約、開墾と農作業、殖産興業を担わせ、米沢藩が一丸となって財政再建に努めたて、累積赤字を減らしていった。
そして迎えた天明3年。
前年からの天候不順に大飢饉となることを予測した鷹山は、謙信時代からの家伝の宝物を売り払い、越後領や大阪表で米を買いあつめた。
8月に浅間山が大噴火して、飢饉がはじまると備蓄米の解放、炊き出しなどの窮民救済策を迅速適格におこない、領民の命を守り切った。
被害が集中した東北諸藩において、米沢藩と白河藩だけは一人の餓死者も逃散もださなかった、と伝えられている。ただし諸説あり真偽不明。
「天明大飢饉」の餓死者数は、窮民救済を怠り領内の農民人口が半分になったと推定される仙台藩や南部藩などが、被害を過小評価した公文書を幕府にだしたので定かではなく、後年の歴史家が寺の過去帳から30万人以上の餓死者がでたと推定している。
藩主が武家の体裁を重んじる前例踏襲タイプか、経世済民を旨とする「無私の日本人」タイプかで明暗が分かれたのだが、この時の白河藩主は松平定信。
定信はこの功績で幕府の老中に抜擢され、「享保の改革」をおこなったが、生真面目すぎる質素倹約令が軋轢を生んで罷免された。
この点は鷹山はバランス感覚が優れていて、死後は神として祀られたし、200年も後にアメリカ大統領のお手本にもなっている。
地方自治体の首長もお手本にしてほしい。