上越市立博物館の夏休み企画で、収蔵庫が特別公開されてドブネを観察してきた。
ドブネは能登から新潟で使われてきた定置網漁の木造船で、丸木舟を発展させた「オモキ造り」という準構造船。かっては糸魚川にもドブネ職人がいた。
図面では鈍重そうに見えたが、実物を観察すると波を切りさく凌波性(りょうはせい)は良さそう。
佐渡の小木には、「鬼の器」の民俗譚が残っている。
嵐の翌朝、小木の浜にゴツゴツした木の器のようなものが大量に漂着し、村人は鬼の丼ではないかと気味悪がった。数日して輪島からドブネがやってきて、鬼の器は嵐で流れた輪島塗りの椀生地なのだと回収していったというのが、鬼の丼の正体。
グーグルアースで測ると、輪島から小木まで直線距離で124キロもあり、往路は時速2キロで北上する対馬海流に乗れるにしても、平均時速5キロで漕いでも24時間以上はかかる「沖走り」の航路であったらしい。
復路は富山湾を時計周りに流れる対馬海流の反流を利用して、妙高・立山・白山を山当て(やまあて・位置測定の目標)して、能登の付根にある氷見市付近を目指し、沿岸に沿って帰ったのではないだろうか?
ちなみに越佐海峡の最短距離でも40キロあり、中央付近では360℃が水平線で、陸地は見えない。
そこまでして回収した椀生地とは?
漆の椀造りは、爺さんの代で丸太を玉切り、粗加工までして乾燥させ、この状態が「鬼の器」。親父の代で8割がたに削って乾燥、当代が椀生地にして漆をかける3代に渡る気の長い仕事。
だから「鬼の器」が台風で流されたりすると、数代後の子孫の飯の種が失われることになるから必死だったのだ。
蔵出しの輪島漆器が不要だからもらってくれと言われた時、収納された箱には、江戸時代中期から大正時代までの誂えた年号が書かれていた。
かっての輪島塗の漆器は、冠婚葬祭用に飯椀・汁椀・皿・脚付き膳などのセット販売で、買い求めた人も数代に渡って子孫のために誂えていったようなのだ。
時代が変わって、先祖が子孫に託した家宝が、捨てられていく。ドブネ大工の道具も捨てられていく。
学芸員さんとそんな話をして、「モノはともかく、ドブネや輪島塗のモノガタリを残すしかないんでしょうねぇ・・・」とうなだれて外に出た。
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