高田の一斉除雪で雪樋(ユキドヨ)をはじめて使って、屋根の上を歩きまわらなくてよい工夫に感動した。
「雪国十日町の暮らしと民具」には、雪樋は昭和初期から使われ、金属製スコップが普及しはじめたのは大正時代からと紹介されており、それ以前の除雪は大変だったろう。
高田で使われていた雪樋は幅50㎝×長さ3・6m内外で、各戸で大工に注文したそうだ。
真冬以外は無用の長物を雁木の下に吊るして保管する家もあって、各戸の工夫が面白い。
近年では塩ビ製波板トタンをそのまま代用したり、ホームセンターには波板トタンの端を丸めて排雪が横に逃げないためのプラスチック製枠も売られていた。
屋根雪おろしで一番危ないのは転落だから、雪樋は便利であるだけでなく安全対策でもある。
もっとも簡易な代替品はブルーシートだそうで、除雪の甲子園ともいえる高田の一斉除雪は、民具好きには楽しい2泊3日であった。
貴重な写真ありがとうございます。
雪樋(ユキドヨ)とのことで調べたら、樋の読みには、「ひ,とい」の他に、とよやとゆがあるんですね。
縄文人(見習い)さんも書かれいる斐太神社と斐太遺跡(天神堂古墳と観音平古墳,平と堂で、「びょうどう=平等」となりますね。)そして、ご祭神が巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそみ)及び巨勢斐太臣(こせのひたのおみ)の祖とされる荒人説があります。
糸魚川の「いとは」は、いひ=井樋とし、岐阜県と三重県を流れる揖斐川ですが「揖斐」は大昔、水田へ水を引く「井樋」(イビ)から名付けられたと見られるとウィキにあります。また、出雲国の斐伊川(ひいかわ)は『出雲国風土記』大原郡斐伊郷の条に、「樋速日子命がここに住んだので樋(ひ)という」との記載があります。イビとヒイで反対ですね。そして、メノウ勾玉は出雲が産地で、三種の神器の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)に、「二・仁の」のフリガナがある訳でしょう?
樋速日子命の斐伊神社は、孝照天皇三年、当社の分霊は、遠く武蔵国一宮の氷川神社に奉祀されたという。当時は、相当の大社であったようだ。
また、国会議事堂の中央ホールから天皇陛下のご休所のある三階への階段の石は、茨城県常陸太田市の真弓神社がある寒水石とのこと。翡翠石=氷川神社,寒水石=寒川神社とすると、翡翠が歴史から消された訳となります。なので、竹内宿禰の系図で「波多八代宿禰」のみ八代=矢(樋)代わりの意味になるのでしょう。
常陸風土記に、「常陸の国は、元は日高見」とあります。これは当て字で、ヒダ神国が正解では?と思います。
やっと、奈良文化財研究所が長野県佐久の旧石器遺跡の発掘を始めて、
「遺跡からは大型石刃を含め、アフリカで誕生し、ユーラシア大陸を東に拡散した現生人類に特有の石器群が、国内で初めてそろって出土。同様の石器群は、中央アジア、南ロシア、中国などで5万~4万年前のものが出土。朝鮮半島でも4万1千年前の大型石刃が見つかっている。日本列島への現生人類の到達にも関わる事例で、国武氏は「ユーラシアの系譜を引く石器群が、朝鮮半島を通じて流入したという評価も可能」と指摘した。」と日経新聞に書かれています。
地名や神社の由来や、あて漢字については時代によって変遷していくので、私はお手上げです(笑)
ヒスイについては古語でニと呼ばれており、饒速日命や瓊瓊杵尊のニ、越後國風土記に記述のある青丹玉のニ、ヌナカワのヌは同義というのが文献史学の定説とされ、古事記研究家の三浦祐之先生に質問したら弥生時代にはニと呼ばれていたのではないか?と仰っておられました。