「必ず死んでこいと」いう命令に9度も背き、終戦まで生き延びた陸軍航空兵の記録「不死身の特攻兵」がベストセラーになったことは記憶に新しい。
ところが海軍の爆撃機乗りにも、似た経験をした人がいたことを最近になって知った。
「奇跡の中攻隊」の著者、東秋夫さんは「不死身の特攻兵」と同じく、自分の技量があれば1度の特攻で死ぬより何度も出撃したほうが戦果は高く、無駄死には避けるべきと考え、度重なる特攻命令から還ってきた。
もちろん生還するたびに上官から暴言・暴力を受け続け、日本に残した家族も国賊になると威され続けた。
東さんに「死んでこい」「戦果がなくても死ぬことに意味があるのだ」と特攻を強要し続けたのは、ラバウル航空隊の飛行長として様々な戦記にも登場する中島正中佐。
250キロ爆弾を抱いた飛行機で軍艦に突っ込んでも、上部構造は破壊できても撃沈させることは敵艦の誘爆でもなければ不可能ということは軍事常識だった。装甲の厚い軍艦を沈没させるには、海面下の船腹を狙った魚雷攻撃ということは日清・日露のころから太平洋戦争まで変わらない作戦。
またマリアナ海戦くらいになると米艦隊は対空レーダーを装備していたので、日本軍機の襲撃に対し、倍の兵力で迎撃態勢をとっていたし、運よく迎撃機を振り切っても命中精度のたかいレーダー管制された対空砲火と近接するだけで炸裂する砲弾(VT信管)が待ち受けており、よほどの僥倖がなければ特攻機は米艦隊に辿りつけないと日本軍の上層部やベテラン搭乗員は知っていた。
フィリピン沖海戦では特攻兵に対して、「45から60度の角度で目標に突っ込め」と指導する中島に、ベテラン搭乗員が「それだと降下速度は400ノット(時速760キロ)を超えて、零戦は操縦不能になるか空中分解します。」と意見具申したが、中島はここでも「死ぬことに意味があるのだ」と平然と答えたそうだ。
多くの若者に特攻を強要し続けた中島は終戦まで生きのび、特攻兵の遺族をまわって遺書を集めて隠蔽し、特攻は強要ではなく志願であり、兵隊は我先にと喜んで志願してくるので選抜に困ったほどである」とした回顧録「神風特別攻撃隊の記録」を出版し、ベストセラーになっている。
その中島は、戦後に自民党国会議員として警察予備隊(自衛隊の前身)の創設に尽力していた元上官の源田実から、航空自衛隊の空将補に抜擢され、ここでも「死ね。死ぬことに意味があるのだ。」と訓示していたそうだが、中島の死後くらいだろうか、防衛省の倉庫から特攻兵の遺書が発見されて、関係者の証言もあり中島が特攻の実態を隠蔽工作していたことが判明した。
戦争の実態を封印して責任回避に躍起になっていた元指導者たちに対し、老齢となったの元特攻兵たちが「無謀な作戦で死んだ戦友のために・二度と繰り返してはいけない」と、現場の真実を語りはじめたのが2,000年前後くらいだろうか。「奇跡の中攻隊」の東さんもその一人。
インパールの牟田口中将、ノモンハンやガダルカナルの辻参などなど、無謀な作戦で部下に死を強要し続けた「死神」は死なないし、反省も責任もとらず、自己弁護するのが旧日本軍。
そういえば東京裁判から海外に逃亡していた辻参謀も、裁判終了後に帰国してからは自分の作戦を弁護する戦争回顧録を出版してベストセラーとなり、自民党の国会議員になっている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます