縄文人(見習い)の糸魚川発!

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勾玉つくりに信念ならあるが、拘らず真心をこめない理由・・・糸魚川翡翠展2021を終えて

2021年11月27日 10時28分21秒 | ぬなかわヒスイ工房
晴天の東京から11日ぶりに帰宅したら、雷はなるわミゾレは降るわの冬景色の糸魚川。
 
トークセッションで「ワタシはヒスイ加工で真心をこめないんですヨ。」と言ったら笑いが沸いたので、以下はその補足説明。
私の勾玉をおいしそう、かわいい、生きてるみたい、ヒスイが喜んでいま~す!と評価されるのは素直に嬉しいのだが、「拘りの勾玉」とか「真心がこめてある」と言われるとムムムとなる。
 
拘りの原義は執着心や我執のことだから、むしろ拘りから離れようと努力しているのですヨ。
 
初心者のころは「俺の拘り」みたいな思いはあったにしても、拘りも続ければ当たり前になるもんで、職人たるものは当り前のことをやっていけばいいと思うし、当たり前のことをしないと気持ち悪いのだ。
 
「俺の拘り」みたいな暑っ苦しい想い入れなしに、当たり前のことを淡々とこなすのがモノ作りのプロではないだろうか。
技術があがっていくと同時に「当り前の自主基準」、すなわち審美眼もあがっていくので、いつまで経ってもゴールはないし、いつでも「これが現状で精一杯の仕事でございます」との思いで勾玉を作っている。
 
あえていうなら、「勾玉のカタチをしたヒスイの塊りから、ヒスイで作った勾玉とは?」を追求し続ける信念(ポリシー)ならあるし、技術の上手下手とは審美眼と誠実さの度合いのことではないかと考えている。
 
また「真心がこもっている」と第三者から評価されるのならいいが、職人が自分で「真心ををこめて作りました」というのは我執の嫌らしさを感じる。
 
だから「ワタシがヒスイを加工する」という主従関係から、主体をワタシとヒスイのセッションに置いているのが現状。
野口整体の考え方を基本にしている私のヒスイ加工は、多分に時間芸術方面の表現者的だから、ワハハ本舗の佐藤正宏さんの芝居談義や音楽家の話しに我が意を得たりと引き込まれる。
 
今年でヒスイ加工10年目となるが、やっと造形や研磨のことがわかりかけて中級者になれたかな、と実感している。
 
個展の直前に辛口の同業者から「ピッカピカじゃん!これなら高く売れるよぅ!」と手研磨の丸玉を評価されてそのことに気が付いたし、すでにヒスイの勾玉をいくつか持っている個展の来場者から「これまで観たのと全然ちがう・・・」と買って頂けた。また過去のお客さんからも「作風がかわった?」と聞かれたのだ。
 
たかが勾玉、されど勾玉。勾玉のカタチをしたヒスイの塊りなら誰でも作れるが、ヒスイで作った勾玉は生涯をかけて追求していく価値がある。
それは拘りではなく信念。じっくり作品をみてもらえる個展はいい。
 
主催者ならびにご来場のみなさまに感謝。来年の個展にむけて精進していく所存です。
 
 


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