ザイズに関わらず同じデザインの勾玉でつくる人は多いが、わたしはサイズなり、ヒスイなりにデザインを変える。
例えばオードリー・ヘプバーンを子供のサイズに縮めて、彼女が愛用していたジバンシイのドレスが似合うのか?子供時代のオードリーさんのカワイサもあるハズだから、ちいさな勾玉は子供の頬っぺたみたいにポッテリした印象の勾玉に仕上げるのがわたしの流儀で、そこには無自覚に物体を擬人化する志向があるように思う。
素材のヒスイそのものを重要視するのではなく、ヒトを介してつくられた「ヒスイでつくった勾玉」であることに重きを置くから、立体造形物としての完成度はおろそかにできないと考えているからだ。
ヒスイをパワーストーンというなら、そのまま持っていればいい。しかし縄文人はちがった。堅くて美しく希少なヒスイに出逢って、ヒスイそのものではなく、わざわざ大珠や勾玉に加工して、身に付けることを選んでいるではないか。素材からモノへ。
愛着のある天然物そのものではなく、特別な意味をもたせたであろうカタチに加工して身につけたのはナゼ?それをするのがニンゲンらしさで、そこに他者を我と同化させる一種の擬人化を感じとっている。つまりは物体の擬人化とは、我との同化志向ではないか?
それは石笛も同じで、天然石笛がホンモノで、人工石笛をニセモノと評価するのは、現代的な合理主義というもで、ヒトを介して産み出されたモノであることが重要なのだ。
こういった「ヒトとヒスイの物語」こそが大事だと思うから、「勾玉ってなんだろう?」と、自問し続けながらヒスイ加工している訳だ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます