社会復帰のリハビリで、新年最初の恒例になった遺物勾玉の臨作をしたら坐骨神経痛を忘れて没頭。やっぱ好きなのだ。
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臨作(りんさく)は書道の臨書に学んだわたしの造語で、滑石は勾玉つくり体験会でつかわれるやわらかい石。遺物の複製は実測図や実物大写真からテンプレートをつくり、忠実であろうとするほど難しくなっていくので、ヒスイ職人の修行と心得ている。
扁平な胎児形をした縄文勾玉から、弥生時代早期に激変した勾玉のエポックメーキング的な、北部九州の「菜畑遺跡」出土のヒスイ製勾玉を滑石で臨作。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/26/eb21600cf75f66d4b9c0bc5def9cfca3.jpg)
3つ並んだ勾玉のうち
左が縄文晩期の糸魚川の「寺地遺跡」出土の典型的な縄文勾玉。
中央が頭部と胴部の差が明確で立体的になった「菜畑遺跡」勾玉
右が弥生時代中期の北部九州の「宇木汲田遺跡」出土の丁子頭勾玉だ。
3つ並べると「菜畑遺跡」の造形は、縄文勾玉から立体造形物として別次元に移行したことと、格段の技術革新があったことが明らか。弥生時代早期に、勾玉造形の好みの変化と技術革新があったのはなぜか?
大陸や半島から稲作文化を持ち込んできた人々、その二世、三世たちが、縄文文化を取り入れたと考えるのが自然だろう。
「菜畑遺跡」勾玉は、頭部と胴部に刻みをいれて立体感と躍動感をだしているのだが、実際につくって言えることは、中期の宇木汲田遺跡の勾玉は、その刻みを紐孔につなげて頭部をさらに球体に近づけ、胴部の断面を円形にした定形勾玉・丁子頭勾玉に発展させているようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/62/f4e85ce8735c30b1518959fe58a82ceb.jpg)
大田区立郷土博物館の「大勾玉展」の図録をみた時は、シャクトリ虫?カプセル怪獣ウインダム?としか思わなかったが、立体になると惚れ惚れする造形美に参ってしまう。左の赤のが自作のテンプレート。
北九州の勾玉行脚をしたい想いがつよくなった。
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