縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

戦争を生き抜いた祖父のファミリーヒストリー・・・兵籍簿

2021年09月30日 08時53分28秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

旧軍人の「兵籍簿」と「部隊行動略歴」なる書類が、県庁の福祉課で閲覧・申請できると知り、電話で問い合わせたら祖父の本籍と名前を告げただけで祖父の記録が残っていることを告げられ、申請の手続きを教えられた。

戦争体験を語らずに逝った祖父は、よほどに辛い体験をしたに違いないと供養のつもりで記録を取り寄せてみた。

申請書をダウンロードして記入、旧軍人と申請者の関係を証明できる戸籍謄本と申請者の本人確認ができる証明を県庁の福祉課に送るだけ。

 

申請書を送付して2週間ほどでコピー代金と簡易書留代金の合計金額が660円との案内が届き、口座振込みして待つこと3週間。

意外と簡単に「兵籍簿」と「部隊行動略歴」が入手できた。

文字がにじんだ旧仮名遣いの文章と格闘し、不明な部分は戦友からの手紙や戦記出版物、ネット情報を頼りに9割は解読に成功。
祖父の原隊は仙台の独立輜重兵第53中隊。祖父は第一小隊第一分隊の分隊長であったことがかっての部下からの手紙に書かれていた。
 
三度の兵役で中支、満州、フィリピン、マレー、ガダルカナル、ソロモン、ニューブリテン島のラバウル、インパール戦を含むビルマを歴戦し、「遭難して高雄入港」ともあるので、乗った輸送船が撃沈されたのだろうか?
細かい文字がにじんで読みにくいので、ちゃんと拡大コピーまで付ける親切さ。
 
召集兵では滅多にないと聞く下士官最高位の曹長にまで昇進して、勲章までもらっているのに手柄話をしなかったのが祖父らしい・・・。
 
誰にも分かりやすくした軍歴に戦史記録を補足して、祖父の誕生から結婚、子供の誕生、復員までをNHKの「ファミリーヒストリー」風に作ったので、仏壇にそなえて親戚に配ることにする。お袋は鼻水をすすりながら読んでいた。
「インパール兵隊戦記」は、祖父と同じく31師団(烈兵団)隷下の独立輜重隊として、インパール戦に参加した黒岩正幸さんの戦記。あまりにもの惨状に、祖父もこうであったかと読みすすめることができず、読了に2か月も要した。
 
祖父の部下からの手紙には、インパール・コヒマ・ウルルクの地名が出てくるのでコヒマ攻略を担った31師団の隷下にいたのではないかと推測してはいたが、部隊名が特定できて決定的となった。
 
飢餓地獄のインパール戦では、部下の傷病兵を見捨てずに3000m級の険しいアラカン山脈を越え、アメーバ赤痢やマラリアが猖獗を極める雨季のジャングルを、恐らくは食うや食わずで歩いて3週間ほどはかかってビルマのマンダレーへ連れ帰り、ラングーン(現在にヤンゴン)病院に入院させた祖父。
 
白骨街道と呼ばれたこのルートは、自力歩行できなくなった兵士はヒョウやワシに捕食され、あるいは手榴弾で自決を強要されるか、味方から殺されて食われる「生き地獄」であったと「インパール兵隊戦記」にある。
 
戦争が終わって復員船に乗船する際には、戦地で威張り散らしていた上官が兵隊たちからリンチされることもあったと聞くが、祖父の部隊も暴動寸前になった。が、ふだんは温厚な祖父が一喝すると、興奮した兵士たちが鎮まった・・・らしい。
 
本人は語らなくとも、戦後に命を救われた人々が訪ねてきては「あの時は渡邉さんに命を救われました」と語ることで、異状な戦場にあって祖父がいかに人間らしく生き抜いてきたかを家族は知ることができた。
 
亡くなってからは敬慕の念はたかまってはいたが、軍歴を知ることで敬慕が畏敬にかわった。
 
兵籍簿を取り寄せたい方は、旧軍人の本籍のある都道府県庁の福祉課に相談してみるといい。
 
私の場合は戸籍謄本と申請経費の合計で2,000円もかからなかった。
 
 
#祖父たちの太平洋戦争 #祖父が戦場でどう生きたか #戦争を生き抜いた祖父のファミリーヒストリー #あちこちのすずさん #インパール戦から生還した祖父の記録

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿