「ブックスサカイ」の選書コーナーで見つけた本書は、「日本人がキツネにだまされなくなった」のは、高度成長期に里山が宅地開発されたことなどを理由にあげているが、わたしは明治の「文明開化」「欧化啓蒙」「脱亜入欧」といった、近代合理主義の時流がまずあると考えている。
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民俗学者の宮本常一は、江戸時代生まれの老人の語りは物語的で、明治以降の生まれの老人の語りは散文的と報告しているが、関係がありそうだ。
昭和の落語名人たちの伝記を読むと、明治期の生まれの師匠がたは「不思議なことがあるもんだ」と怪異譚を語るが、大正以降の師匠がたの伝記には怪異譚はでてこないのだ。
キツネにだまされていたのは、明治人が不思議にであった時に「不思議なことがあるもんだ」とそのまま受容し、合理的に分析しない感受性があったためではないか?江戸時代以前の読み物には、「不思議なことがあるもんだ」で締めくくるものは多い。
ところが、ごく普通の大学生から、キツネにだまされた体験を聴いたのが20年ちかく前。
夏休みで広島の実家に帰省して、お盆の墓参りで山の斜面を登って5分にある墓地を目指したら、通いなれた山道を30分も堂々巡りした。
気味が悪くなったので墓参をあきらめて山を下ろうとしたら、木陰から覗くキツネと目があい、落ちていた小枝を投げたら逃げていき、すぐに墓に辿りつけたのだそうだ・・・不思議なことがあるもんだw
ここ数年で拙宅周辺でキツネ・イタチ・タヌキを目撃するようになったし、糸魚川市は消滅危機市町村だそうだから、いつか人間より野生動物の方が多くなるかも知れない。わたしもキツネにだまされる時を愉しみにしている。
世界的にポピュリズムが台頭しているが、「八紘一宇」を旗印にした大東亜共栄圏建設の拡大主義のポピュリズムの時流にのった日本人が、「だまされた!」とホゾを噛んだのは80年前だ。
だまされるのは、キツネくらいにしておいた方がいい。よほど平和的で人間くさい。
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