ヌナカワ姫伝説が最も濃密で、かつ具体的なのが、「奴奈川姫がお隠れになった」とされる「稚児ケ池」だが、未だかってマスコミで紹介されたことはないのではないだろうか?
ヌナカワ姫伝説を追う某マスコミ記者の取材をうけ稚児ケ池を案内したら、記者の琴線に触れたらしく、なんども礼を言われた。
また伝説は県内、県外を問わずかなり詳しく調べ、人にも会って聞いていたようだが、考古学的な見地から伝説の整合性を検証する私の手法は初めてだと、面白がっていた。
補足資料として、市内の史跡・遺跡をプロットした「eまっぷいといがわ」を使えば、海側から稚児ケ池のある京ヶ峰の丘を遥拝するかのように「笛吹田遺跡」「姫御前遺跡」「竹花遺跡」「南押上遺跡」と、弥生~古墳時代の遺跡群が半径2キロ圏内に密集していることが確認できることも教えた。
下記URLは「eまっぷいといがわ」の稚児ケ池の位置で、「奴奈川神社跡」とある
https://itoigawa.geogeo.jp/maps?mode=theme&lid=4&mid=12
ちなみに「eまっぷいといがわ」での稚児ケ池は、天津神社社伝に「奴奈川姫と眷属の寓居あり」とある通りに「奴奈川神社跡」、「三十三塚あり」とされる位置には「山崎三十三塚・堂屋敷」と記述されている。
稚児ケ池にまつわるヌナカワ姫伝説は、出雲勢力に能登に連れていかれたヌナカワ姫が逃げ帰って「お隠れになった・潜んでいた茅芦原に火を放たれ、お姿が見えなくなった」までの悲劇的な伝説だから、マスコミ受けしないし、官民挙げて宣伝している「古代のラブロマンス」と整合性がつかないから、報道されることがなかったのだと思う。
70年代に「青海町史」を編纂した青木重孝先生は、姫川左岸の現在の須沢に位置する「大角口遺跡」が、ヌナカワ姫がお住まいになった場所と推定されたようだが、その時期には拙宅地下に位置し、玉造り遺構と方形周溝墓をもつ笛吹田遺跡は発掘されておらず、現在ならどう推測されるか聞いてみたいものだ。
笛吹田遺跡から300m北にある、「姫のおんまえ」という名をもつ姫御前遺跡名も意味深長。
願わくば「稚児ケ池」が世に出て欲しい。
ここは我が寺町区の人々が、江戸時代末~明治の頃くらいまで「稚児舞い」を奉納していた、ヌナカワ姫信仰の痕跡の地なのだ。
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