※今回と次回記事に温泉は登場しません。あしからず。
記事内容が日本と台湾を行ったり来たりして申し訳ございません。
2016年4月20日付拙ブログ記事「台湾最後の現役サトウキビ列車 虎尾糖廠のトロッコ その5・工場へ向かって走るトロッコ」の続編です。その5では台湾最後のサトウキビ列車が街へ戻ってゆく姿を紹介しましたが、今回はその番外編として、虎尾の鉄道が旅客営業していた頃の名残を追いかけます。
●虎尾駅跡
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かつて台湾糖業鉄道が網の目のような路線網を有し、サトウキビのみならず旅客も運んでいた頃には、この虎尾の街にもトロッコによる旅客列車が運転されており、斗六や田中などで台鉄の路線と接続していたんだそうです。製糖工場の城下町として発展した虎尾の街に線路が敷設されたのは、当地に製糖工場が建設された日本統治時代。製糖産業の発展とともに虎尾は交通拠点としての役割も果たすようになり、虎尾駅には複数の路線が乗り入れていたんだそうですが、1970年代に旅客営業は廃止されてしまいました。
さて、虎尾市街の中心部にある製糖工場西縁に沿って中山路という通りが南北に伸びているのですが、この通りに面して建つ瓦葺のいかにも古そうな木造建築は、虎尾駅が旅客営業していたころの駅舎跡。旅客営業廃止後は陋屋然としていたんだそうですが、駅舎の歴史的意義が見直されて「歴史建築」に指定され、数年前に綺麗な姿となってリニューアルされたんだそうです。ちなみに台湾文化部文化資産局のサイトによれば、この駅舎は明治時代に建築されたものなんだとか。本当なの?
駅舎入口には「虎尾驛」と書かれたプレートが掲げられていますが、これはリニューアルに際にして新たに取り付けられたものかと思われます。台湾で駅は「站」と表記しますから、敢えて「驛」という字を用いることによって、日本統治時代の面影を再現しようとしているのでしょう。
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現在の駅舎は観光案内所として活用されているほか、お土産品の物販や喫茶コーナーなどが設けられ、レンタルサイクルなどのサービスも行われています。製糖工場やトロッコを観光の目玉にしようとしている虎尾の街の意気込みが伝わってきます。ちなみに駅舎(つまり観光案内所)のオープンは朝9時です。
駅舎内には旅客営業が行われていた当時の様子を再現すべく、記念撮影用の出札窓口が設けられていました。
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出札窓口の上には、西螺・北港方面や斗六方面へ向かう列車の時刻表、そして・・・
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斗六・西螺・北斗・田中など各方面へ接続することを示す路線図や料金表が掲示されていました。
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駅舎の真裏は現役の製糖工場。広大なトロッコ用のヤードが広がり、何本もの線路が輻輳しています。タイミングが良ければ、サトウキビをたくさん積んだトロッコがこのヤードを走り抜く光景を目にすることができるでしょう。
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駅舎の裏手、かつてはホームがあったと思しき線路の上には、トロッコ用の小さなSLが静態保存されていました。蒸気ドームに大きく浮かび上がる「車」のエンブレムからもわかるように、このSLは日本車輌(※)で製造されたものなんですね。
(※)日本車輌製造株式会社:日本の鉄道車両メーカーで、今ではJR東海の連結子会社。東海道新幹線の車両をはじめ、小田急のロマンスカーや台鐡のプユマ号などもつくっています。現在は愛知県に工場を有していますが、昭和40年代までは埼玉県の蕨にも生産拠点がありました。
ネットで得られた情報によれば、このSLは1937年(昭和12年)に製造されて虎尾の工場で活躍した後、現役を退いてからは一旦同じ雲林県の斗六へ移され、2010年に再び虎尾に戻り、現在のような形で静態保存されているんだそうです。製造時期から考えると、このSLが製造された場所は埼玉県の蕨工場かもしれません。
●虎尾鉄橋
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虎尾駅跡を出て中山路を南下し、工場ゲートの前を過ぎて川の方へと歩いてゆきます。工場の敷地に沿って使われなくなった線路が残っており、「鳴」、つまり「警笛鳴らせ」という意味の鉄道標識も立ったままでした。ここでの線路は3本のびていますが、これは線路幅762mmのトロッコと、線路幅1067mmの台鉄の車両を一緒に走らせるためのものです。
線路の先には鉄橋が見えますね。あそこへ行ってみましょう。
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虎尾に数ある観光名所のひとつであり、且つ雲林県指定の史跡でもある「虎尾鉄橋」に到着です。日本統治時代に架橋されたもので、かつては鉄道専用の鉄橋でしたが、鉄道が廃止されている現在では、線路敷のまま遊歩道として転用されています。また現存する台湾唯一の三線軌条の鉄橋でもあります。
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一旦鉄橋から離れて全景を捉えてみました。川を渡る一本の橋を対岸までよく観察してみますと、工場に近い手前側から順に、ワーレントラス(大きな三角)、背の低いポニートラス(小さな三角)、それとほぼ同じ高さのプラットトラス(逆ハの字型)、そしてプレートガーダーと、4種類の橋梁が連続していることがわかります。しかも対岸側で連続しているガーダー橋に関しては、貫禄を感じさせるいかにも古そうな部分と、明らかに新しい部分に分かれていることにも気付きます。
橋詰に設置されている解説によれば、イギリスのWestwood, Baillie and Companyによる設計で、大阪の汽車会社が橋梁を製作し、同じく日本企業の黒板組が施工したんだそうです。ちなみに、中央部の背が低いトラス橋は、開業したばかりの東海道本線京都~大阪間で用いられていた橋を移設したものらしく、日本の鉄道史にとっても非常に重要な物件なのであります。
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では鉄橋の上を歩いてみましょう。もともとは線路ですから、橋には線路と枕木が架かっているばかりなのですが、さすがにそれだけでは隙間だらけで歩道として使えませんから、各枕木の間にグレーチングが敷かれて安全に歩けるようになっていました。
鉄橋が跨ぐこの川の名前は虎尾渓。穏やかな陽気だったこの日は川の流れもゆるやかでしたが、台風で増水すると暴れ川へと変貌しちゃうらしく、この橋はいままで何度も濁流に呑まれて流出する被害に遭っているんだとか。つい4年前の2012年にも台風による水害が発生し、大規模に崩壊して相当部分の橋梁が流出してしまいました。
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リベットの鋲がたくさん並んでいるいかにも古そうな橋の端(ダジャレになってごめんなさい)には、大きく凹んだ跡が見受けられました。水害の際にひん曲がってしまったのでしょう。鉄橋にリベットでとめられている銘板に注目! 「汽車製造株式会社 大阪 大正二年製造」と記されているではありませんか!
そう、この鉄橋は、大正2年に大阪の汽車製造(またの名を汽車会社)でつくられたんですね。なお汽車製造という会社はその名の通りSLをはじめとした鉄道車両を製造していたメーカーで、つい3~4年前までは東京の地下鉄千代田線でも「汽車会社」のプレートをつけた車両が走っていましたが、会社としては昭和40年代に解散しており、川崎重工に吸収されております。
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参考までに、上画像は2007年に、赤坂辺りを走る千代田線車内(東京メトロ6000系)で撮った「汽車会社」の銘板です。「東京」と記されていますが、汽車会社は会社が解散する昭和40年代まで東京・江東区の南砂町にも工場がありました。
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2012年に発生した水害で鉄橋の一部が流出し、大被害を受けたことは上述した通りですが、鉄橋の歴史的価値を重要視した台湾の方々は元の姿に戻したいと強く願い、2年後の2014年には修復工事がはじめられ、翌年の2015年、修復工事は見事に竣工と相成りました。私が鉄橋の上を歩けたのも修復工事のおかげです。
この工事に際しては行政院の文化部から幾許かのお金が出されたのですが、大半の資金を拠出したのは台湾の大手電炉メーカー東和鋼鉄のCEOである侯王淑さん。文化部が出した予算は200万元ですが、東和鉄鋼が工事のために寄付した額は、なんとその9倍にあたる1800万元(約6500万円)。それだけの価値がこの鉄橋にはあるんだとお考えになったのでしょう。その篤志には大いに感心させられます。鉄橋の手すりに掲示されている東和鉄鋼の銘板は、陽光を受けて燦然と輝いていました。
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トラス橋上にも橋の歴史や修復工事に関する解説プレートが設置されていました。
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橋を渡りきった対岸から歩いてきた橋を振り返ると、トラスの向こうに製糖工場の煙突がそびえ立っており、鉄道現役時代は、虎尾鉄橋と製糖工場は切っても切り離せない関係であったことが、一目ですぐに理解できました。鉄橋そのものにも歴史的価値がありますが、砂糖も20世紀の台湾を支えた重要な産業であり、鉄橋の対岸から望めたこの景色は、台湾の近代史そのものを端的に物語っているようでした。
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記事内容が日本と台湾を行ったり来たりして申し訳ございません。
2016年4月20日付拙ブログ記事「台湾最後の現役サトウキビ列車 虎尾糖廠のトロッコ その5・工場へ向かって走るトロッコ」の続編です。その5では台湾最後のサトウキビ列車が街へ戻ってゆく姿を紹介しましたが、今回はその番外編として、虎尾の鉄道が旅客営業していた頃の名残を追いかけます。
●虎尾駅跡
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かつて台湾糖業鉄道が網の目のような路線網を有し、サトウキビのみならず旅客も運んでいた頃には、この虎尾の街にもトロッコによる旅客列車が運転されており、斗六や田中などで台鉄の路線と接続していたんだそうです。製糖工場の城下町として発展した虎尾の街に線路が敷設されたのは、当地に製糖工場が建設された日本統治時代。製糖産業の発展とともに虎尾は交通拠点としての役割も果たすようになり、虎尾駅には複数の路線が乗り入れていたんだそうですが、1970年代に旅客営業は廃止されてしまいました。
さて、虎尾市街の中心部にある製糖工場西縁に沿って中山路という通りが南北に伸びているのですが、この通りに面して建つ瓦葺のいかにも古そうな木造建築は、虎尾駅が旅客営業していたころの駅舎跡。旅客営業廃止後は陋屋然としていたんだそうですが、駅舎の歴史的意義が見直されて「歴史建築」に指定され、数年前に綺麗な姿となってリニューアルされたんだそうです。ちなみに台湾文化部文化資産局のサイトによれば、この駅舎は明治時代に建築されたものなんだとか。本当なの?
駅舎入口には「虎尾驛」と書かれたプレートが掲げられていますが、これはリニューアルに際にして新たに取り付けられたものかと思われます。台湾で駅は「站」と表記しますから、敢えて「驛」という字を用いることによって、日本統治時代の面影を再現しようとしているのでしょう。
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現在の駅舎は観光案内所として活用されているほか、お土産品の物販や喫茶コーナーなどが設けられ、レンタルサイクルなどのサービスも行われています。製糖工場やトロッコを観光の目玉にしようとしている虎尾の街の意気込みが伝わってきます。ちなみに駅舎(つまり観光案内所)のオープンは朝9時です。
駅舎内には旅客営業が行われていた当時の様子を再現すべく、記念撮影用の出札窓口が設けられていました。
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出札窓口の上には、西螺・北港方面や斗六方面へ向かう列車の時刻表、そして・・・
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斗六・西螺・北斗・田中など各方面へ接続することを示す路線図や料金表が掲示されていました。
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駅舎の真裏は現役の製糖工場。広大なトロッコ用のヤードが広がり、何本もの線路が輻輳しています。タイミングが良ければ、サトウキビをたくさん積んだトロッコがこのヤードを走り抜く光景を目にすることができるでしょう。
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駅舎の裏手、かつてはホームがあったと思しき線路の上には、トロッコ用の小さなSLが静態保存されていました。蒸気ドームに大きく浮かび上がる「車」のエンブレムからもわかるように、このSLは日本車輌(※)で製造されたものなんですね。
(※)日本車輌製造株式会社:日本の鉄道車両メーカーで、今ではJR東海の連結子会社。東海道新幹線の車両をはじめ、小田急のロマンスカーや台鐡のプユマ号などもつくっています。現在は愛知県に工場を有していますが、昭和40年代までは埼玉県の蕨にも生産拠点がありました。
ネットで得られた情報によれば、このSLは1937年(昭和12年)に製造されて虎尾の工場で活躍した後、現役を退いてからは一旦同じ雲林県の斗六へ移され、2010年に再び虎尾に戻り、現在のような形で静態保存されているんだそうです。製造時期から考えると、このSLが製造された場所は埼玉県の蕨工場かもしれません。
●虎尾鉄橋
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虎尾駅跡を出て中山路を南下し、工場ゲートの前を過ぎて川の方へと歩いてゆきます。工場の敷地に沿って使われなくなった線路が残っており、「鳴」、つまり「警笛鳴らせ」という意味の鉄道標識も立ったままでした。ここでの線路は3本のびていますが、これは線路幅762mmのトロッコと、線路幅1067mmの台鉄の車両を一緒に走らせるためのものです。
線路の先には鉄橋が見えますね。あそこへ行ってみましょう。
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虎尾に数ある観光名所のひとつであり、且つ雲林県指定の史跡でもある「虎尾鉄橋」に到着です。日本統治時代に架橋されたもので、かつては鉄道専用の鉄橋でしたが、鉄道が廃止されている現在では、線路敷のまま遊歩道として転用されています。また現存する台湾唯一の三線軌条の鉄橋でもあります。
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一旦鉄橋から離れて全景を捉えてみました。川を渡る一本の橋を対岸までよく観察してみますと、工場に近い手前側から順に、ワーレントラス(大きな三角)、背の低いポニートラス(小さな三角)、それとほぼ同じ高さのプラットトラス(逆ハの字型)、そしてプレートガーダーと、4種類の橋梁が連続していることがわかります。しかも対岸側で連続しているガーダー橋に関しては、貫禄を感じさせるいかにも古そうな部分と、明らかに新しい部分に分かれていることにも気付きます。
橋詰に設置されている解説によれば、イギリスのWestwood, Baillie and Companyによる設計で、大阪の汽車会社が橋梁を製作し、同じく日本企業の黒板組が施工したんだそうです。ちなみに、中央部の背が低いトラス橋は、開業したばかりの東海道本線京都~大阪間で用いられていた橋を移設したものらしく、日本の鉄道史にとっても非常に重要な物件なのであります。
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では鉄橋の上を歩いてみましょう。もともとは線路ですから、橋には線路と枕木が架かっているばかりなのですが、さすがにそれだけでは隙間だらけで歩道として使えませんから、各枕木の間にグレーチングが敷かれて安全に歩けるようになっていました。
鉄橋が跨ぐこの川の名前は虎尾渓。穏やかな陽気だったこの日は川の流れもゆるやかでしたが、台風で増水すると暴れ川へと変貌しちゃうらしく、この橋はいままで何度も濁流に呑まれて流出する被害に遭っているんだとか。つい4年前の2012年にも台風による水害が発生し、大規模に崩壊して相当部分の橋梁が流出してしまいました。
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そう、この鉄橋は、大正2年に大阪の汽車製造(またの名を汽車会社)でつくられたんですね。なお汽車製造という会社はその名の通りSLをはじめとした鉄道車両を製造していたメーカーで、つい3~4年前までは東京の地下鉄千代田線でも「汽車会社」のプレートをつけた車両が走っていましたが、会社としては昭和40年代に解散しており、川崎重工に吸収されております。
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参考までに、上画像は2007年に、赤坂辺りを走る千代田線車内(東京メトロ6000系)で撮った「汽車会社」の銘板です。「東京」と記されていますが、汽車会社は会社が解散する昭和40年代まで東京・江東区の南砂町にも工場がありました。
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2012年に発生した水害で鉄橋の一部が流出し、大被害を受けたことは上述した通りですが、鉄橋の歴史的価値を重要視した台湾の方々は元の姿に戻したいと強く願い、2年後の2014年には修復工事がはじめられ、翌年の2015年、修復工事は見事に竣工と相成りました。私が鉄橋の上を歩けたのも修復工事のおかげです。
この工事に際しては行政院の文化部から幾許かのお金が出されたのですが、大半の資金を拠出したのは台湾の大手電炉メーカー東和鋼鉄のCEOである侯王淑さん。文化部が出した予算は200万元ですが、東和鉄鋼が工事のために寄付した額は、なんとその9倍にあたる1800万元(約6500万円)。それだけの価値がこの鉄橋にはあるんだとお考えになったのでしょう。その篤志には大いに感心させられます。鉄橋の手すりに掲示されている東和鉄鋼の銘板は、陽光を受けて燦然と輝いていました。
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トラス橋上にも橋の歴史や修復工事に関する解説プレートが設置されていました。
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橋を渡りきった対岸から歩いてきた橋を振り返ると、トラスの向こうに製糖工場の煙突がそびえ立っており、鉄道現役時代は、虎尾鉄橋と製糖工場は切っても切り離せない関係であったことが、一目ですぐに理解できました。鉄橋そのものにも歴史的価値がありますが、砂糖も20世紀の台湾を支えた重要な産業であり、鉄橋の対岸から望めたこの景色は、台湾の近代史そのものを端的に物語っているようでした。
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