さらに、この法案は、臓器移植をもっと推し進めていくために、改正案が発表され、議論されています。
参照
論点は、現在は認められていない15歳未満の脳死の子供の扱い、本人の意志ない場合も家族の同意のみでの移植ができるための法の整備、そして、やはり、「脳死」を固体の死と明確に定義するべき…という改正案。
読んでいていかがでしょう。移植医療従事者の勇み足のようなものを僅かでも感じたりしませんか? もちろん、移植医療が躍進して、たくさんの命が奪われずにすむことは素晴らしいし、医療の現場にいる医師も、臓器の提供があればこの人の命を救えるのに…と法整備の遅れを痛切に感じていることは痛感します。
臓器移植に関する法律は、命を「生かす」ための法律であることに間違いはないと思います。命のリレー。一刻を争う現場に、のらりくらりとした「脳死」周辺の法整備は、従事者にとって全くイライラするものだということも、理解できます。
一方、先に書いたように、梅原猛氏は、脳死臨調の一員として、「脳死を人の死とする」ことに反対の立場から講演しましたが、彼も臓器移植に真っ向から反対しているわけではないのでした。でも、死体からでないと摘出できなわけだし、めちゃくちゃ矛盾があります。それを彼は堂々とこう語りました。
「私は、脳死臨調の一員として脳死に至った方をを何人も拝見してきました。彼らは顔色もよく、手を触るとあたたかい。私はその方が死んでいるとは感じられません。これから確実に死へと渡っていこうとされているには違いなくとも。そのような人が今、自分の心臓を取り出して差し出す。これは菩薩の行為です。」
臓器移植に関する法を整備しようとして、理論を展開しているところへ、真っ向から感情論をぶつけてくるのです。そうだ、死は悲しい。そして、臓器移植は尊い。ものすごく尊い。これこそが、たぶん一般的な、「死」についての日本人の観念ではないでしょうか。
人の生と死は「神の領域」などと、これらの周辺の法律に関して議論するときによく言われますが、「神の領域」であったとしても、この先もたぶん「神」は姿を現すことはありません。なので人間がどこかに必ず線をひかなくてはいけないもの。似たようなことが、不妊治療の分野でもおこっています。
そして政治家がそれらの決定の鍵を握っているワケです。
「人の生と死の決定」なんていうのは中でも、ほんとに極端で究極の「決定」ですが。「政治」や「法律」って、なんか、生活の中のぼんやりとしたどこか一部…みたいに感じるかもしれないけれど、実は、意識しようとしまいと、私たちの周りには法の網が毛細血管のように張り巡らされているのです。
生活の一部…などではなく、実は「すべて」かも。
当時、政治の勉強に来日していた韓国人の哲学専攻の友人が、「韓国では政治は総合芸術といいます」と言っていました。
私はその意味がすごくよくわかるような気がします。
政治家の方々には、そういう自覚を持って欲しいです。
そういう人を選んだり、育てたりするのは自分達…という意識を、有権者は持つべきだと思います。
実は「脳死=人の死」の賛否や、個人の死生観よりも、コレがいいたかった。
「都議選投票日によせて」です。
自分の「死生観」ということでは、私は実は、まだドナーカードを持っていません。自分の中でまだ結論が出せないでいるからです。
最大の理由は私は「私の死は、私のもの」と思えないからです。悼み悲しんでくれる人たちのもの…という思いがあります。「私」を終えたあとに、どんな主張も残さなくていいという思いがあります。…いや、しかし、骨肉の争いを避けるため、遺産相続の遺言は必要だな(-_-;)
死んだ後の自分の身体については、もう暫く考えさせて下さい…ってところです。
参照
論点は、現在は認められていない15歳未満の脳死の子供の扱い、本人の意志ない場合も家族の同意のみでの移植ができるための法の整備、そして、やはり、「脳死」を固体の死と明確に定義するべき…という改正案。
読んでいていかがでしょう。移植医療従事者の勇み足のようなものを僅かでも感じたりしませんか? もちろん、移植医療が躍進して、たくさんの命が奪われずにすむことは素晴らしいし、医療の現場にいる医師も、臓器の提供があればこの人の命を救えるのに…と法整備の遅れを痛切に感じていることは痛感します。
臓器移植に関する法律は、命を「生かす」ための法律であることに間違いはないと思います。命のリレー。一刻を争う現場に、のらりくらりとした「脳死」周辺の法整備は、従事者にとって全くイライラするものだということも、理解できます。
一方、先に書いたように、梅原猛氏は、脳死臨調の一員として、「脳死を人の死とする」ことに反対の立場から講演しましたが、彼も臓器移植に真っ向から反対しているわけではないのでした。でも、死体からでないと摘出できなわけだし、めちゃくちゃ矛盾があります。それを彼は堂々とこう語りました。
「私は、脳死臨調の一員として脳死に至った方をを何人も拝見してきました。彼らは顔色もよく、手を触るとあたたかい。私はその方が死んでいるとは感じられません。これから確実に死へと渡っていこうとされているには違いなくとも。そのような人が今、自分の心臓を取り出して差し出す。これは菩薩の行為です。」
臓器移植に関する法を整備しようとして、理論を展開しているところへ、真っ向から感情論をぶつけてくるのです。そうだ、死は悲しい。そして、臓器移植は尊い。ものすごく尊い。これこそが、たぶん一般的な、「死」についての日本人の観念ではないでしょうか。
人の生と死は「神の領域」などと、これらの周辺の法律に関して議論するときによく言われますが、「神の領域」であったとしても、この先もたぶん「神」は姿を現すことはありません。なので人間がどこかに必ず線をひかなくてはいけないもの。似たようなことが、不妊治療の分野でもおこっています。
そして政治家がそれらの決定の鍵を握っているワケです。
「人の生と死の決定」なんていうのは中でも、ほんとに極端で究極の「決定」ですが。「政治」や「法律」って、なんか、生活の中のぼんやりとしたどこか一部…みたいに感じるかもしれないけれど、実は、意識しようとしまいと、私たちの周りには法の網が毛細血管のように張り巡らされているのです。
生活の一部…などではなく、実は「すべて」かも。
当時、政治の勉強に来日していた韓国人の哲学専攻の友人が、「韓国では政治は総合芸術といいます」と言っていました。
私はその意味がすごくよくわかるような気がします。
政治家の方々には、そういう自覚を持って欲しいです。
そういう人を選んだり、育てたりするのは自分達…という意識を、有権者は持つべきだと思います。
実は「脳死=人の死」の賛否や、個人の死生観よりも、コレがいいたかった。
「都議選投票日によせて」です。
自分の「死生観」ということでは、私は実は、まだドナーカードを持っていません。自分の中でまだ結論が出せないでいるからです。
最大の理由は私は「私の死は、私のもの」と思えないからです。悼み悲しんでくれる人たちのもの…という思いがあります。「私」を終えたあとに、どんな主張も残さなくていいという思いがあります。…いや、しかし、骨肉の争いを避けるため、遺産相続の遺言は必要だな(-_-;)
死んだ後の自分の身体については、もう暫く考えさせて下さい…ってところです。