WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

豆乳しゃぶしゃぶ part2

2005-07-06 | 美味礼讃
いってきました。またまたオペラシティ「八かく庵」。豆腐懐石のお店です。
初台53Fから、神宮の森を見下ろしながらのゆるゆるランチ♪
いや~~、最近、ハマってます。豆乳しゃぶしゃぶ。
本日の献立は「豆乳白づくし」。

まずは、できたての暖かい豆冨(←このお店ではこう記す)
ようこそようこそ、さあどうぞどうぞ…ってなカンジでシンプルに出てくる。
ゆずをまるごと1個に、おろし金、竹のハケ。
これでゆずの皮をおろして、ハケでさっさっ…と豆冨にかけるんです。
あ~~いい香り!
このシンプルさがたまらん!!

湯葉のお刺身をいただいたあと、八角形のお上品な豆乳鍋、
さらに、木箱に具材がひと品ずつ並んで運ばれてくる。
具材は、地鶏、そのままお刺身で食べられるホタテや鮪、それに生麩や京菜etc.

ここで、豆乳しゃぶしゃぶ幸せ体験復習

第一回…おままごとのような小さな紙鍋で、具がなくなったあとの豆乳をあたためて湯葉をつくって底をつくまで食べ尽くした。

第二回…豚バラ肉と千切り野菜に、豆乳の表面にできる膜を絡めていただくというのが、豆乳鍋の神髄と知る。その後の豆乳リゾットも絶品。だが豚バラの脂もすべて食べ尽くしたってこと( ̄_ ̄|||)

そして、第三回めの本日。
お肉や魚介、野菜の旨味の出尽くした豆乳鍋に、にがりを入れて5分余り。ゆるゆるのやわらか~~い豆冨ができるのです♪
豆冨は、もちろん、そのまま食べてもめっちゃ美味しい!
だってだって、お肉と魚と野菜のだしの豆冨だよ、こんなのアリ!?!?
そして、ここで、えんどうマメとしらすのまぜご飯&おつゆが出てくる。
「よろしければ豆冨をごはんにかけて召し上がってみて下さい」
うっそ~~~!!
でも一応、このおいしそうな混ぜご飯を、半分はそのままいただくわ。
前回は桜海老の混ぜご飯でした。これに私はいたく感動したのです。
今回も、お茶碗軽く1杯の混ぜご飯ですが、やわらかくてほんのちょっともっちりしたしらすと、エンドウマメのぷちっとした歯ごたえは、とってもハーモニー。
こんなにシンプルなのに、感動の味なのよ~
そしてそして、いよいよ、このおぼろ豆冨をごはんにかけてみる…

ああそして、TAKAMIは至福の時に酔いしれるのであった、、、

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「政治」と「人の死」3

2005-07-05 | 人生妙なり
さらに、この法案は、臓器移植をもっと推し進めていくために、改正案が発表され、議論されています。
参照
論点は、現在は認められていない15歳未満の脳死の子供の扱い、本人の意志ない場合も家族の同意のみでの移植ができるための法の整備、そして、やはり、「脳死」を固体の死と明確に定義するべき…という改正案。

読んでいていかがでしょう。移植医療従事者の勇み足のようなものを僅かでも感じたりしませんか? もちろん、移植医療が躍進して、たくさんの命が奪われずにすむことは素晴らしいし、医療の現場にいる医師も、臓器の提供があればこの人の命を救えるのに…と法整備の遅れを痛切に感じていることは痛感します。
臓器移植に関する法律は、命を「生かす」ための法律であることに間違いはないと思います。命のリレー。一刻を争う現場に、のらりくらりとした「脳死」周辺の法整備は、従事者にとって全くイライラするものだということも、理解できます。

一方、先に書いたように、梅原猛氏は、脳死臨調の一員として、「脳死を人の死とする」ことに反対の立場から講演しましたが、彼も臓器移植に真っ向から反対しているわけではないのでした。でも、死体からでないと摘出できなわけだし、めちゃくちゃ矛盾があります。それを彼は堂々とこう語りました。
「私は、脳死臨調の一員として脳死に至った方をを何人も拝見してきました。彼らは顔色もよく、手を触るとあたたかい。私はその方が死んでいるとは感じられません。これから確実に死へと渡っていこうとされているには違いなくとも。そのような人が今、自分の心臓を取り出して差し出す。これは菩薩の行為です。」
臓器移植に関する法を整備しようとして、理論を展開しているところへ、真っ向から感情論をぶつけてくるのです。そうだ、死は悲しい。そして、臓器移植は尊い。ものすごく尊い。これこそが、たぶん一般的な、「死」についての日本人の観念ではないでしょうか。

人の生と死は「神の領域」などと、これらの周辺の法律に関して議論するときによく言われますが、「神の領域」であったとしても、この先もたぶん「神」は姿を現すことはありません。なので人間がどこかに必ず線をひかなくてはいけないもの。似たようなことが、不妊治療の分野でもおこっています。
そして政治家がそれらの決定の鍵を握っているワケです。
「人の生と死の決定」なんていうのは中でも、ほんとに極端で究極の「決定」ですが。「政治」や「法律」って、なんか、生活の中のぼんやりとしたどこか一部…みたいに感じるかもしれないけれど、実は、意識しようとしまいと、私たちの周りには法の網が毛細血管のように張り巡らされているのです。
生活の一部…などではなく、実は「すべて」かも。
当時、政治の勉強に来日していた韓国人の哲学専攻の友人が、「韓国では政治は総合芸術といいます」と言っていました。
私はその意味がすごくよくわかるような気がします。

政治家の方々には、そういう自覚を持って欲しいです。
そういう人を選んだり、育てたりするのは自分達…という意識を、有権者は持つべきだと思います。
実は「脳死=人の死」の賛否や、個人の死生観よりも、コレがいいたかった。
「都議選投票日によせて」です。

自分の「死生観」ということでは、私は実は、まだドナーカードを持っていません。自分の中でまだ結論が出せないでいるからです。
最大の理由は私は「私の死は、私のもの」と思えないからです。悼み悲しんでくれる人たちのもの…という思いがあります。「私」を終えたあとに、どんな主張も残さなくていいという思いがあります。…いや、しかし、骨肉の争いを避けるため、遺産相続の遺言は必要だな(-_-;)
死んだ後の自分の身体については、もう暫く考えさせて下さい…ってところです。
          
 
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「政治」と「人の死」2

2005-07-04 | 人生妙なり
嘗ての私のボスは、母親を難病で亡くしていて、当時の医療制度や病院の体質に対する強い疑問や反発が政治家になる動機になったと語っていました。
そういう背景もあるし、臓器移植法案「脳死は人の死」には、大賛成の立場でした。
議員の一票一票でで人の死を定義する法案が成立するか否かが決まるのです。
法案成立に賛成や反対する個人や団体からの陳情は、ボスのところにも連日寄せられていました。
特に彼を深く悩ませたのは、反対する陳情団。
「反対」に票を投じるということは、新たな臓器移植の道を閉ざすこと。その狭間で思い悩み、友人の医療系出身の議員とも、「自分は賛成だけれど、どうやら世論は脳死をまだ受け入れる段階ではないようだ。もしも反対に投じたとしたら、臓器移植へのどんな突破口が見出せるのか、その可能性は残されるのか」何日も議論を重ねたようです。

そして、彼は、投票の当日、反対の札を投じました。
この瞬間まで、私達スタッフは、彼がどういう選択をするのか、誰も知りませんでした。
秘書室のモニターで議場の投票中継をみて、私も感銘をうけました。
自分は賛成なのに。それでも、多くの世論や、脳死臨調での議論を踏まえ、「脳死を人の死と定めなくても臓器移植への道を開く法を整備することができるのなら」と。彼にとっては、重い重い選択だったようです。
前日は、一睡もできなかったそうです。

けれども、過半数の賛成で、この法案は衆議院を通過しました。
そして、参議院で否決。差し戻しとなり、結局現在のようなかたちになったのです。つまり、

死体とは脳死した者の身体を含む。さらに「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体。(臓器の移植に関する法律第六条より)

ややこしいですね。簡単にいうと、臓器移植が行われることになった脳死状態の身体に限って「死体」とみなす…ということです。
(つづく)
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「政治」と「人の死」1

2005-07-03 | 人生妙なり
脳死…脳幹を含めた全脳機能が完全に失われ再生不能となった状態。脳死をもって「人間の死」とみなす見解もあるが、一致をみない。(大辞林)

今日は都議選投票日
政治の世界から離れると、とたんになんだかホントに、候補者が「遠くのなにやってるんだかわからない人たち」に感じます。

私はちょうど去年の今頃、7年間勤めた政治家の事務所を退職しました。
在職中は、政治の側にいたし、ある時期には、議会に提出する法案の作製にかかわる会議にも代議士の代理で出席して、内容のメモをとって伝えるというようなこともやっていたので、いわば、政治の最先端、新聞が報道するよりも前のところで仕事をしていた時代もありました。

私の代議士事務所の経験の中で、いちばん印象に残っていることをひとつ選ぶとしたら、「臓器移植」に関する法案の投票の場面です。

「脳死を人の死とするか」

これは、政党、政策を超えた、「人間の死」「人間の尊厳」にかかわるとても難しい問題だったと思います。私も、投票に直接は関れないにしても、真剣に考えました。
脳死に至った人は、再び生命活動に戻ることはできない。「脳死を人の死とする」ことを法律で定義することによって、心臓移植を始めとする、多くの臓器移植の道が開かれて、大勢の命を救うことができる。日本の医療サイドからも、技術的な面での受け入れ体勢はかなり整っていて、「脳死を人の死とする」決定が、今や遅しと待ち望まれていました。
一方、脳死状態とは、身体もあたたかく、心臓は鼓動している。これを「死」といえるのか? 90年代初頭に「脳死臨調」が立ち上げられており「人の死」について真剣な議論が重ねられていました。哲学者 梅原 猛 氏も脳死臨調の一員で、脳死を人の死とすることに反対していた少数派でした。私は、議員会館で彼の講演を聴く機会を得ました。
感動的な講演でした。私の心情にいちばん近いところを語っていらした方だと思いました。

「生と死」のはっきりとした境界線って、ほんとうにあるんだろうか?
あるとしても、誰がそれを決めるのでしょうか?
今では、あの当時の経緯によって、「脳死」と「心停止」場合によって、いずれかが「人の死」と認められるという、妙な状態になっています。

私は、かつての夫の父親の死に立ち会いました。

「…反応がないようなので、御臨終です」

私が義父のところに駆けつける以前に義父の心臓は、いったん停止したそうです。それから心臓マッサージや、薬の投与で再び心臓の鼓動は始まりましたが、意識は戻ることがありませんでした。
臨終の宣告を受ける直前にも、医師は、心臓マッサージを何度か試みて下さり(これは医療行為というより、倫理的な行為と、その時私は思いました)、そのたびに少し復活するのだけれど、すぐに乱れていく…というのを何度か繰り替えし、そして、ついに
「反応がないようなので…」に至るのです。
「心停止」を人の死とする…という定義に従った「臨終」の宣告だったと思います。

人の死を法律で定義するって、どうでしょうか。
もし、自分がそれを決める権限が与えられているとしたら…
しかし、「死」とはどんな状態か、法律で定義されていなければ、様々な現場が混乱してしまう。「死の定義」これは法律的に絶対に必須事項です。
「臓器移植法案」に関しては、殆どの政党が「党議拘束」を外し、自由投票となりました。議員ひとりひとりが「人の死」の鍵を握るのです。
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四次元パズル

2005-07-01 | アーティスト魂
私のピアノの生徒で、大学2年生の女の子がいます。幼稚園のときからずっと受験を乗り越えてここに至った、「継続は力」の証人Aちゃんです。
今「トロイメライ」をやってるんだけど…まあそれはいいとして。

某国立大学で、専攻は数学。そろそろ試験なので、勉強しなくちゃって話になって。
専攻の数学が難しくてワケわかんないって話になって。「しまった…専攻を誤った」らしい。

TAKAMI: Aちゃんって、なんで数学なの!?御両親は、文系なのに…

A:そうなんですよ~。高校のときは、結構おもしろくて好きだったんですよ。答えがはっきり出るところも性にあってるってゆーか。
(うんうん、そーゆう子、いっぱい知ってる)
それに論文が超苦手なんですよ~~
(そーゆー子もいるいる)
大学の試験でも、「…について論ぜよ」とかいうのが出るんですけど、
えっ、論ぜよ?一人で??とか思っちゃうんですよ~~
(ギャハハハ\(⌒∇⌒)/彼女にとって「論ずる」とは議論することらしい。いい子だ!)

T: 大学の数学ってどーゆーことやるの?

A:(説明してくれたけど、なんだかよくわからない…)

T: そんで、数学ってのは、どこに向かっていくワケ?(これは真剣に私も知りたい)

A:(橋のアールだとかを数式に表したりして、巨大な建造物を三次元空間に数式で表現したりするらしい。)

ひょえ~~なんかスバラシイぞ。しかしそりゃもう絶対ヤだな、私ゃそんな分野。
でも、大昔、東大の編入試験を受けようとしてたある男の子が、「僕には数式がくるくる回ったり、滑り降りたり、楽しく遊んでるように見えるんです」と言ってたっけな。この男の子は、豊かな「素養」があるんだな。こういう人には楽しいだろうな、数学って。
実は私も、楽譜はそのように見えます。くるくる回ったり、駈けのぼったり、滑り降りたり、寝そべったり… すみません、私、この話は、過去に書いたような気が…

しかし、考えてみれば、曲をつくるっていうことも、四次元空間を音とことばで埋めていく作業なのだった。これはもう、めっちゃパズルです。

作曲っていうのは、実は数学とかなり似たところがあって、規則に従って音を並べていけば、音が聞こえなくても曲ができるってところがあります。「禁止事項」ってのがあって、「これはダメ、これもダメ…じゃあこれならOK…」とやりながら、五線を音符で埋めていけば、結構ちゃんと曲ができるのです。
しかし、これが私はダメでした。(厳格対位法挫折者)すんごい数学チックなんだもん。
「禁則」をおざなりにして、耳に頼る、感性に頼る、右脳に頼る…しかし、やはり、どこかで必ず行き詰まるときがある。そして、ひねり出すときは、結局やっぱり「四次元パズル」になるのよ~~~
「はめこむ」のよね、音とか、言葉とか、コードとかをね。
はめこむピースを脳ミソやらからだ中を捜しまわって見つけてくるって感じ。
いつもいつも迸り出るワケじゃありません。殆どの場合が辛いっ!!

Aちゃんは、7月下旬が試験だそうで。私はちょっと早めで、上旬がリミットなんだけど、マジで、お互い頑張ろうね!って気分なんだよ。
私達、きっと同じ苦しみを味わってるのかもね???

ブログ書いてるヒマがあったらピアノに向かえ。
…ってことで、暫く滞る、もしくは息抜きに書きまくる!?

がんばります。
滞ったらごめんなさい。

(画像は、本日Takが保育園の「造型」で作ったかざぐるま。本日の文章の象徴として採用致しました。どおよ。)
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