蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

理科教育の黎明  (bon)

2022-05-14 | 日々雑感、散策、旅行

 一昨日(5/12)友人と一緒に、東京巣鴨にある「日本理化学協会」事務局を訪問
してきました。 協会は3年後に創立100周年を迎えますが、その第1回、つまり100
年前の創立総会が、わが母校で行われたということで、それのいきさつなどを確認
するための訪問でした。

 何しろ、100年前のことで、古い資料などを頼るしか方法はないのですが、これら
を勉強しているうちに、当時の日本が、いかに科学技術に対してその必要性、重要
性を感じていたか、特に学校教育において生徒実験を取り入れた科学(物理、化学
など)知識は、理論的な考え方、創作的な行動をも育成する観点から、それまでの
模倣主義を打ち破り新しい日本に向かう若者たちへの必須事項であるとの認識が充満
していたことが読み取れてくるのでした。

      中等教育第五十六号(創立総会もよう)
       

 創立70周年記念式典における講演録「草創期から現在までの歩み」(日本理化学
協会顧問山崎裕司氏)には、『わが国の理化教育思想は、明治以来欧米文化の輸入
と英米独の理化教育思想に深く影響を受けてきたが、国運をかけた日露戦争、特に
大正時代の第一次世界大戦のドイツ科学技術の発展から受けた刺激と、わが国工業
発展を培う理化教育への強い要望が、単なる教授法の改善にとどまらず自然科学の
研究推進の動きに連なった。・・ 』と記されていました。

 そのような背景の中、全国中等学校理化学教員に呼び掛けて、当時文部省から出
されていた諮問に答申案を作成する重要案件を主題として、各教員からの研究発表
数件、並びに新しい理化学にかかわる企業訪問を並行した会議が行われたのです。

 時に、1926年(大正15年)5月6~8日、全国3府41県(樺太~九州、朝鮮に及ぶ)
から300数十名が、大阪府立清水谷高等女学校に参集され、熱心な討論の末、文部大臣
への答申案が作成されたのでした。 この第1回つまり創立総会での議事模様が、
『中等教育』第56号(大正15年7月20日、全国中等学校理化学教員協議会報告号、中
等教育会)に、詳しく、逐一の議事録が記載されていました。 ここで「中等学校」
とありますのは、旧制中学校、女学校、師範学校、工・商・農学校などを指し、現
在の高等学校を対象とされているのです。

 創立総会は、全国中等教育理化学教員協議会(議長・会長、嘉納治五郎氏、中等
教育会長)として開催されましたが、その2年後の第3回に、この名称を『日本理化
学協会』に改称されていました。
 その第1回(創立総会)が、わが母校で行われた理由が分かりました。 

       嘉納治五郎氏(初代会長、講道館柔道創始者、体育の父)
         
(ウイキペディアより)

 

 開催趣旨の中の場所選定理由として、『而して大阪は今や我が国工業の中心地で
あり、工場施設の見るべきもの頗る多く、加ふるに本春電気大博覧会開催(3月20より
5月末まで)の好機に際会しておりますので、大阪市において本協議会を開くことと
しました。』と述べられています。

 そして、この時、会長である嘉納治五郎氏の胸の中を次の史実から想定できるの
でした。 すなわち、無血開城により明治政府が誕生し、それまで西欧の科学技術
の重要性を痛切に感じていた新政府は、いち早く科学技術の普及に取り組むため、
明治元年、大阪府参与の後藤象二郎や小松帯刀らにより、オランダ人ハラタマ学者
を教授頭として理化学に特化した専門学校が開校したのです。
 当時関東では、彰義隊の混乱などのためもあり、緒方洪庵の適塾の伝統が残る大阪、
大阪城の西近くに舎密局(せいみきょく:オランダ語でChemie=化学から)なる理化
学専門学校が開校したのです。 すなわち、これが日本で最初にできた理化学教育の
始まりであったのです。

 しかし、この舎密局は、大阪理学所、さらには開成所などと名称を変えた後中学
校に吸収され、舎密局そのものは京都に移設され第三高等学校へと受け継がれて行
くのです。

       舎密局記念碑(大阪市)
        (中央区観光HPより)

 

 一方、時は下り明治28年には、日本で最初の女子大学開校の動きが大阪で始まり、
当時の教育者成瀬仁蔵や広岡浅子の運動により、政界・財界を動かし大阪城南近くの
清水谷の地が女子大学用地にあてられたのでした。 ところが、突如、日本最初の
女子大学を東京(目白台)に開校することとなり最終決定委員の中には、嘉納氏も
おられたのです。

 そのような経緯を踏まえて、大正15年に、日本最初の理化学教育を目指す協議会
の開催地は、嘉納氏の思いとして、舎密局が開校し、日本最初の女子大学用地の跡に
開校した大阪府立第一高等女学校(清水谷高等女学校)が当然であり、折しも校舎
改築落成の年(大正14年)に同校で講演をした経緯のある嘉納氏にとって同校を選
択されたことは、意義ある決定であったと思わざるを得ないのです。


        文部大臣への答申
                  

 

 創立総会で審議された、文部大臣答申案は同年(大正15年)6月15日に文部大臣
(当時、岡田良平文部大臣)へ建議されたのでした。ところがこの後、関東大震災、
世界恐慌、国連からの脱退、太平洋戦争などと続き、理科教育振興法制定は、1953年
(昭和28年)とその間長時間を要したのです。
 しかし、この法律によって、今日まで学校での理科教育が円滑に進められ社会に
定着、技術立国として現実につながっているのです。

 理振法制定後10年ごとに記念式典が挙行されていますが、皇太子殿下(現、天皇
陛下)ご臨席の時もあり、歴代文部大臣やノーベル賞受賞者などそうそうたる方々
から祝辞が述べられています。

           

 理化学に教鞭をとられた先生方の大変な努力の長年の積み重ねが今日の日本の柱
の一つを支えていることに思いを巡らせるとき、感慨の渦に巻き込まれるのですが、
その発端にわが母校があったことも忘れられない史実なんです。

 

 

 

Nobuyuki Tsujii - La Campanella - BBC Proms 2013  辻井伸行さん プロムス2013 アンコール

 

 

 

 

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