(「劇画通り」行きつ戻りつ)
『テスト・コースの青春』を書籍化し、「貸本マンガ史研究」の三宅秀典氏にお送りしたところ、劇画草創期~隆盛期にかけての知られざるエピソードがいくつか浮かび上がってきた。
桜井昌一氏の「東考社」が、国分寺から府中市、埼玉県毛呂山町へと移り、そこで三宅氏と深い関わりができたことも、ぼくは知る由もないことであった。
関わりのあった青林堂編集者T氏から間接的に問い合わせがあり、ぼくも記憶がはっきりしないところもあり直接島本正靖氏に訊いてみた。
島本氏の話では、「印美書房」の前身として神田神保町で「東京印美」という個人出版社をやっており、Т氏とのお付き合いはその頃から続いているのではないかという。
当時はまだマンガ吹き出し用にタイプライターで清刷りを打っていたらしく、その後白山下に移って「印美書房」になった頃から、写植が主流になったらしい。
また、ぼくもТ氏も印美書房を経て「有限会社 印美」になったと思い込んでいたのだが、有限会社になったことは一度もないと聞かされて唖然とした。
昭和43年4月に白山下から白山一丁目の三河屋ビル3階に移ったときも、個人出版社のままだったらしい。
そこでは、歌集・句集の自費出版のほか、青林堂の『ガロ』に使用する写植の印字を仕事の一部としていた。
Т氏が白山下にもお見えになったことは先に記したとおりだが、神保町時代のことはまったく知らなかったことで、今回お話を聞いてびっくりしているところである。
また、「株式会社 印美」に改組されたのは、ぼくが辞めたあとの昭和45年のことだという。
要するに、ぼくが在籍した数年をもって「印美書房」の歴史と考えていたのは大間違いで、前後をサンドイッチのように挟まれていたのである。
印美書房に入社したてのぼくが、手動の裁断機で紙を切ろうとして、押える力が弱くグズグズにしてしまったことがあった。
見かねた島本氏が、見本を見せようとして(怒ってた?)思い切り力を籠めたところ、勢いあまって自分の指を切ってしまった。
一瞬色を失い、ブラブラになった指をくっつけるようにしている島本氏を、近くの産婦人科に連れて行ったのがぼくだという話になった。
何か動転する出来事があった覚えはあったが、社長の指を詰めさせかねない不始末をやっていたとは思いもしなかった。
それにしても、あわてて飛び込んだ医者が産婦人科だったとは・・・・。
まさか「縫うのに慣れているから産婦人科に」と思ったわけではなく、一番近くにあった医院だから駆け込んだのだろう。
不名誉な出来事は、思い出したくないから記憶の底に沈めていたのかもしれない。
かすかな断片が浮いたり沈んだりしているところをみると、島本氏の話はまちがいないようだ。
(島本さん、ごめんなさい・・・・)
笑って話してくれてはいるが、危うい事態であった。
今度会うことがあったら、指を確かめなくては。
高橋書店時代の島本氏についても、ぼくは何ひとつ知らなかった。
強いて言えば<のりハサ編集>なるものを教えてもらったぐらいで、「悪書追放」の矢面に立っていた佐藤まさあき氏の漫画を島本氏が出版していたことすら知らなかった。
「すずらん出版社」では編集人、「セントラル出版社」では発行人として名前が載っているようだが、Т氏は高橋書店発行の貸本マンガでも発行人島本正靖とあるのを見ているそうだ。
「社主だったのか」の問い合わせは、発行人の記載から類推したのだろう。
但し、先の「すずらん出版社」の発行人は高橋休四郎氏で、全国出版物卸商組合の副理事長であると三宅氏からお知らせをいただいた。
なぜ、島本氏が発行者になっていたのか疑問も残るが、古いことだし、当時の漫画界は多少いい加減なところもあるから、記憶と資料をつき合わせてみないとなんともいえない。
佐藤氏が昭島から早稲田に拠点を移し、佐藤プロダクションを起こして活躍していた頃の話は面白い。
当時、佐藤まさあき氏と作家の大藪春彦氏は仕事のパートナーであり、ともにガンマニアとしてすこぶる気が合っていたらしい。
あるとき島本氏は、佐藤氏に誘われて東名大井松田に近い中川温泉というところへ行ったそうだ。
ダム湖である丹沢湖の奥、山北町にある信玄の隠し湯で、二人はそこに宿をとって狩猟をする予定だったという。
ところが、その日はなんと前日までの狩猟期間が終わって禁猟期に入った初日だったとか。
とにかく忙しい身だから、そんなこともあったのだろう。
あの佐藤まさあき氏が、端正な顔を曇らせる様子が目に浮かぶ。
もう一つは、おそらくどの漫画関係誌にも載っていない話。
実は河出書房新社から、佐藤氏の画と島本氏の作詞・作曲による唄をタイアップさせ、劇画進行に合わせてハードボイルド調の演歌(?)を発売する予定だったという。
ところが、企画も通りいざという段階で河出書房新社は倒産してしまった。(昭和39年ごろのことらしい)
なんたる不運、せっかく大当たりしそうな企画だったのに計画はポシャってしまったのだ。
どうして他の出版社にその企画を持ち込まなかったのかと、ぼくは口惜しがった。
しかし、傍からとやかく言える単純な話ではなかったのだろうと思い直した。
ただ口惜しさの記念に、島本氏が諳んじていた一番の歌詞を記録しておく。
どこへ行くのか 街角を
黒いソフトの 後ろ影
霧が渦巻く 階段に
口笛ひびく 摩天楼
ああ、夜が更ける 夜が更ける
足の裏まで 夜が更ける
殺し屋が主人公の劇画だったそうで、二番・三番の歌詞もどこかに残っているそうだ。
佐藤氏にしても、このときの落胆は中川温泉で猟銃を撃ち損ねたときの比ではなかっただろう。
「佐藤まさあき」には、女性にまつわるエピソードだけでなく、人間臭い話が周りにいっぱい転がっている。
ご自身ハードボイルド人生を送った佐藤氏からは、奔放さと繊細さを併せ持つ男のダンディズムが匂ってくるようだ。
すずらん出版社で島本氏が出し始めた『大旋風』にも、とんだエピソードが秘められている。
「やあ こんにちは」と題した(名前S)のあとがきには、<時代劇画の革命誌『大旋風』の第一弾を放ちます。>・・・・とある。
<今、編集室のデスクには、第二集以降の斬新奇抜なプランがズラリ並んでいます。どうかこの劇画界の旋風児をいつまでも可愛がってやって下さい。>
このあとがきからも分かるように、島本氏はある期間継続したかたちの雑誌発行を考えていたようだ。
ところが、この劇画誌は第3号で頓挫した。
理由は、雑誌の目玉だった白土三平氏を怒らせてしまったからだそうだ。
なんでも、白土氏のお父様について触れた「白土三平先生の巻」(『大旋風』第2号)の紹介記事が気に障ったらしい。
いま読んでみると、<先生の尊父は高名な洋画家、令弟また然り>との一行だけで、とりたてて問題があるとも思えない。
ただ、当時の白土氏は、父親の名前や業績などが取りざたされるのを嫌ったとも考えられる。
そこで調べてみると、父親は知る人ぞ知るプロレタリア画家の岡本唐貴(1903-1986)で、作家の小林多喜二とは理想を分かちあう同志だった。
「私達の手で未来を開こう」の盟約が知られている。
造型美術家協会、日本プロレタリア文化連盟の中心人物としての活動が危険視され、1932年の夏、特高に検挙、投獄された。
奇しくも長男白土三平(本名・登)が生まれた半年後のことだった。
(後年になっても父親のことを秘しておきたかったのは、トラウマになっていたからか)
信念の人岡本唐貴は、小林多喜二が獄死したのを聞き、自らの危険を顧みず滞在先の神戸から小樽まで駆けつけたという。
洋画家としての画業は、近代美術資料館(さいたま市)、東京都現代美術館等に、「小林多喜二死顔絵」は市立小樽文学館に展示されているという。
次男岡本鉄二氏は、『カムイ伝』第二部の作画、三男岡本真氏は赤目プロダクションのマネージャー担当とある。
(先に聞いていた岩崎稔氏とのダブルブッキング状態は?)
駆け足で見ただけで、現在ウェブにこれだけのことが載っている。
時代とはいえ、突然の執筆拒否には島本氏も困惑したにちがいない。
『大旋風』発行中止の真相はまだ不明だが、おそらくと思わせるところは知ることができた。
いずれにせよ、他に南部伸、沼希一、竹内八郎、南波健二、刈谷敬、谷川きよし等が描き、桜井昌一の作品も予定されていたことを考えると惜しいの一言である。
青林堂編集者のТ氏から提起された島本氏と赤目プロ岩崎稔氏との関係は、もう一度確かめてみる必要がある。
「岩崎さんは赤目プロの支配人みたいなことをやっていた人だよ」と、交流の深かったことを教えてくれたからその点は動かないと思うのだが・・・・。
ただ、白土三平の三男、岡本真氏が赤目プロのマネージャーだったとの記述に接し、両者が前後してその任に当たっていた可能性が出てきた。
話は逸れるが、白土三平の長女で『こまったさんシリーズ』等の絵本作家であった岡本颯子さんには、印美書房の事務所でお目に掛かっている。
ユニークなファッションに身を包んだ、華やかな女性との印象が残っている。
因みに白土氏の奥様は、李春子さんという詩人だそうだ。
島本氏は詩集か何か、本のことで相談を受けていたらしい。
そんなわけで客観的には、誇るところはあっても、秘すべきことはあまりない。
やはり他人からは窺い知れない、当人だけの心の問題があったのだろう。
青林堂の長井勝一社長が、青林堂以前に御徒町のガード下で本屋を営んでいたということも、その関連で伺った。(この時すでに「足立文庫」で出版もされていた?)
持ち込まれる原稿をパラパラとめくり、これは駄目、ここを直せばいけると瞬時に判断する才能は、その時代に培われたのではないかと島本氏はいう。
さらに、「寺島町奇談」を『ガロ』に発表して一気にフィーバーした滝田ゆうは、東京漫画社というところで少女マンガを描いていたのを長井さんに発掘されたらしい。
勝又進は斉藤プロのアシスタント、池上遼一はペンキ屋さん、楠勝平は何度か駄目だしを食らったとも。
ぼくが紙芝居出身の漫画家の事を尋ねると、即座に水木しげる、つげ義春の名が挙がった。
紙芝居グループの創始者は永松武雄(健夫?)という方で、「元祖黄金バット」(1930年)が斯界の祖となった。
終戦後雨後の筍のように復活した紙芝居屋さんの中で、加太こうじ作・画による「黄金バット ナゾー編」が絶大な人気を博した。
水木しげるからも、つげ義春からも、戦後の焼け跡を見ながら這い上がってきたしぶとさを感じる。
尤も「貸本漫画家の大半は紙芝居の出だよ」と付け加えられていたから、当時の劇画家は転身された方も含め、みな逞しかったにちがいない。
佐藤まさあき関連の「街」「ボス」、大阪の日の丸文庫関係では斉藤たかをの「影」、影丸譲也の時代劇「魔像」などが有名で・・・・と話し出したらエンドレス状態。
「劇画工房」のメンバーは8人だったはず(7人と聞き違えたのは当方のミス)だが・・・・と島本氏が首をひねる。
さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、桜井昌一、佐藤まさあき、石川フミヤス、山森ススム、松本正彦・・・・あと一人が思い出せないとのこと。
三宅秀典氏の「貸本マンガ史研究」をめくれば、すぐに分かりますよと答えておいた。
そして間もなく、もう一人のメンバーはK・元美津だと判明した。
この作家は、後に劇画工房を飛び出し「さいとうプロダクション」に移っているから、思い出せなかったのだろう。
メンバーの中心で「劇画」の名付け親である辰巳ヨシヒロ氏の艶話を聞いていて、世間は狭いということを痛感した。
ぼくが会社を辞めた後、印美書房が昭和45年に再び白山下の「小山ビル」3階に転居したということは先に書いた。
その小山ビルの2階にあった「シャモニー」の美人ママが、辰巳ヨシヒロ氏のロマンスの相手だったらしい。
偉丈夫ともいうべき辰巳氏とは、どこかで会ったことがあるような気がするのだが、記憶がはっきりしない。
「桜井昌一と辰巳ヨシヒロが兄弟とは、どうしても思えないんだけどねえ」
島本氏の感想に、ぼくもちょっぴり同調したのは錯覚だったのか。
見た目、腹違いかと思うほど印象の違いがあるんだよ、とも言っていたから・・・・。(失礼、お許しを)
さらにミステリアスな挿話を一つ。
実は、ぼくは印美を辞めたあと中堅の印刷会社に校正担当として就職した。
そのとき、後から入ってきた年上の男性が「辰巳ヨシヒロの弟」を名乗ったのだ。
ぼくが『ガロ』のことなど話題にしたから話す気になったのか、名前もたしか辰巳義宣(思い違いでなければ・・・・)だった。
当時、ぼくは疑いもなく信じていた。
後年、誰に訊いても辰巳兄弟は二人だけというものだから、なんだかキツネに化かされたような気持ちだ。
(まさか、まさか・・・・)
この第三の男は、行動も喋り方ももっさりしていて、兄の桜井昌一さんとも弟の辰巳ヨシヒロさんとも雰囲気が違うように思えたのだが・・・・。
今回、「劇画」をキイワードに、放っておけば忘れ去られてしまうようなエピソードを島本氏から伺うことができた。
たくさんの関係者が、生活の中に残した痕跡を記録しておいてくれれば、劇画・漫画の果実はもっと豊かになる。
今でこそアニメ文化が持てはやされているが、短期間に燃焼し爆発した劇画のエネルギーは、真摯な若者たちを巻き込み社会を動かす魁となった。
「貸本マンガ史研究」に拠って幅広く資料を収集する三宅秀典氏らの努力にも、心から感謝と御礼を申し上げたい。
(未完)
* このコーナーに載せた出来事には、記憶違いや誤りがあるかもしれません。
その際は、順次訂正しますので、ご了承ください。
(追記)
すでにコメント欄に書いたことだが、漫画家の楳図かずお氏と島本氏の甥っ子さん(お兄さんの子供)は同級生だったそうだ。
ぼくらが社員旅行で奈良のご実家に行かせてもらったとき、敷地に接する壷坂川をまたぐように建てられた離れの部屋で、河内音頭を歌ってくれたのがその人だった。
若くて自信に満ち溢れていたから、ぼくらと同じぐらいの年齢か若干年上だったと思う。
現在の五條市にある学校で、一緒に学んだのだそうだ。
屋敷内の建物はコの字型(正確には、道路側の一部が切れたロの字型だそうだ)に連なっていて、かなり歴史を感じさせるものだった。
かなり大きな地主だった(戦後の農地改革で不在地主の扱いをされた)そうで、外側の堅固な土塀が印象深かった。
島本氏のお父様はすでに亡くなられた後で、あれこれ面倒を看ていただいたお母さまの姿が記憶に残っている。
劇画通りを行ったり来たりしていると、思いがけない人間の営みが甦ってくる。
消えかけた足跡、落とした汗の雫、空に吸い込まれる笑い声まで、ぼくには愛しく感じられる。
ささやかなものこそキラキラ輝くように思われるのだ。
(3月12日)早朝
* 3月19日 これまでに判明した誤りを訂正しました。
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1960年第2号の「先生の尊父は高名な洋画家、令弟また然り。まさにキャンバス一家である」が怒った理由というのには納得でき、それはリンク先のものを読んでいただければわかるのですが、ようするに当時28歳の白土三平氏はまだ洋画家になる夢を抱き、漫画を描いているということを一般の目線としては恥じる面もあったわけですね。
確かにガモジンさんの時代は、2~3代目に当たるのでしょうか。
いつも素敵なハガキ絵を見せていただき、自分もこのように絵が描けたらいいなと羨ましく思っております。
また、先頃終わった小説「馬九」の登場人物やシノプスを画で描かれているのを知り、びっくりするのと同時に、さすが漫画から出発した人は凄いと感心いたしました。
次の御作も面白く読ませてもらっております。
意欲作制作中と推察しておりますので、頑張ってください。
白土三平氏にまつわるお話、読ませていただきました。
なるほど、怒るにはそうした理由があったのですか。
白土さんご自身が、洋画家になることを諦めていなかったのですね。
だから、高名な画家である岡本唐貴との親子関係を知られるのが嫌だった。
有力な理由を教えていただき、ありがとうございました。
漫画界で中心的な位置にあった方の稿と思われ、今後アーカイブスまで遡って読ませていただきます。
取り急ぎ御礼まで。